星のゆくすえ
ベーギー・バーギーの歌
ーーお嬢様、夜ふかしをする悪い子は、ベーギー・バーギーがきて食べられてしまいますからね。
マーシャは井戸までの道すがら、婆やがよくそうやって彼女を戒めていたことを思いだした。あの頃のマーシャは本当に手に負えないお転婆だった。何度服を破っては、婆やに繕ってもらったかわからない。
しかしそれもあの夜までだった。致命傷を負った婆やは二ヶ月間、目を覚まさなかった。マーシャは毎日のように婆やが眠る部屋に通っては、ひたすら婆やが回復するようにと祈った。
ーー婆やがこんな目にあったのは、私のせいだから。
父を始めとした大人たちは、それは違うとマーシャを慰めた。それでもマーシャの罪悪感は薄れることはなく、お転婆は鳴りを潜め、お淑やかで大人の言いつけをよく守る子になった。あまりの変貌ぶりに、目を覚ました婆やが「お嬢様の顔をした別人がいる」と言いだしたほどだ。
婆やはすっかり回復し、今でも屋敷で元気に働いている。マーシャにベーギー・バーギーの話をしてくれた頃と違わない健勝ぐあいに、彼女を知る者は“聖者アドリガネスに愛された者”と讃える始末だ。
(婆やならベーギー・バーギーを返り討ちにしてくれるって本気で信じていたものね、あの頃は…)
マーシャが想像するベーギー・バーギーはとにかくやたらと背が高くて、真っ黒なシーツを被っていて、そのくせ目は真っ赤で嫌な光を放っている。そして縦に裂けた口でマーシャを食べてしまおうと追いかけてくるのだ。
ベーギー・バーギーはその子が一番怖がる姿に変身するので、巨大な狼だったり、フクロウ頭で一つ目の男だったり、実に多彩だ。誰が考えだしたかはわからないが、親が子を躾けるために生みだした、想像上の怪物はこの国のあちこちで語られる。
例えば今この瞬間、マーシャの目の前にいきなり現れた男などーーー。
「…」
マーシャは悲鳴をあげなかった。理解が追いつかなかったのだ。身体は固まり、足は地面に張りついたように離れない。
男は灰色のローブを着た小男だった。禿げた頭には髪が数本あちこちに散らばっていて、額との境目がわからない。白く濁った目は大きく出張り、どこを見ているのかわからない。反対に鼻や口は小さくて、よく見なくては見つけられないほどだ。土気色した肌の、骨張った指がマーシャを指して、何事かを呟こうとした。
一閃。
マーシャは息を呑んだ。と、自身で気づく前に冷や汗が流れた。…リセラドが剣技を使ったのだと、その背に庇われてようやく理解できた。
「“狼の目”だな?」
リセラドは低い声で言った。強い威圧感が伝わってきて、マーシャは自分に向けられたものではないのに息が詰まった。
「そうとも、“黄金の子”」
小男が腕を下ろして応えた。しゃがれた高めの声で、喜びを隠しきれていない様子だった。
地面には、リセラドが切り落とした小男の手首がある。だというのに、小男は痛がる素振りさえ見せなかった。この光景を見ずにすんだマーシャは幸運だった。卒倒をくり返すはめにはならなかったのだから。
(“黄金の子”?)
マーシャは小男が言った言葉を反芻する。聞きなれない言葉に疑問符を浮かべたが、リセラドが発した怒気に霧散してしまった。
「違う」
「違うものか、貴様の祖先が遺した莫大な遺産。“失われし古代魔法”。その名をーー」
マーシャの肌を風が撫でた。普通の風ではなく、リセラドの剣が空を裂いたのだと感覚で理解した。
「おう、おう。血の気の多いことだ」
マーシャの後ろから声が聞こえた。降りかえると、手首を持った小男がそこに立っている。
リセラドが反応すると同時に、手首の先から灰色の煙があがった。とっさにマーシャをかき抱くと、煙をできるだけ吸わないようにと自身の胸に押しつけた。
「また会おうぞ、“黄金の子”よ!」
小男は言いたいだけ言うと、煙に紛れて消えてしまった。それから煙が落ちつくまでどのくらい経ったのか、リセラドがもう大丈夫だと判断し、離すと、顔を真っ赤にしたマーシャがいた。
「シスター、御無礼を」
さっと距離を取ったリセラドに、マーシャは同じだけ距離を詰めた。驚くリセラドに、マーシャは口の端を歪めてみせる。
「お気になさらず! ほら、大丈夫なんです! 命の恩人に怯えたりなんてしません!」
リセラドの胸の辺りで、マーシャの青い瞳を縁取るまつ毛が震えている。彼は一瞬だけ目を見開いたが、片膝をつき、意識して柔らかい声をだした。
「シスター、その深き思いやり、心より痛みいります。…ですが、近すぎます」
「! 失礼しました!」
マーシャの顔が今度は違う意味で赤くなった。結婚もしていない者同士の距離ではない。慌てて二、三歩後ろに下がると、騎士は立ちあがり、怪我や不調はないかマーシャを心配した。
「いいえ、騎士様がすぐ助けてくださったので、何ともありません」
「それならば良かった…一つお聞かせ願いたいのですが、どこへ行こうとしていたのです?」
「村の井戸をお借りしようと」
「お付きあい致します」
リセラドは微笑むと、自身が先頭に立った。マーシャはその数歩後をついていく。騎士の大きな背を見ながら、マーシャはベーギー・バーギーの歌を思い返していた。
(ベーギー・バーギー いいこなら 騎士さま出てきて お化けを ばっさり♪)
マーシャは井戸までの道すがら、婆やがよくそうやって彼女を戒めていたことを思いだした。あの頃のマーシャは本当に手に負えないお転婆だった。何度服を破っては、婆やに繕ってもらったかわからない。
しかしそれもあの夜までだった。致命傷を負った婆やは二ヶ月間、目を覚まさなかった。マーシャは毎日のように婆やが眠る部屋に通っては、ひたすら婆やが回復するようにと祈った。
ーー婆やがこんな目にあったのは、私のせいだから。
父を始めとした大人たちは、それは違うとマーシャを慰めた。それでもマーシャの罪悪感は薄れることはなく、お転婆は鳴りを潜め、お淑やかで大人の言いつけをよく守る子になった。あまりの変貌ぶりに、目を覚ました婆やが「お嬢様の顔をした別人がいる」と言いだしたほどだ。
婆やはすっかり回復し、今でも屋敷で元気に働いている。マーシャにベーギー・バーギーの話をしてくれた頃と違わない健勝ぐあいに、彼女を知る者は“聖者アドリガネスに愛された者”と讃える始末だ。
(婆やならベーギー・バーギーを返り討ちにしてくれるって本気で信じていたものね、あの頃は…)
マーシャが想像するベーギー・バーギーはとにかくやたらと背が高くて、真っ黒なシーツを被っていて、そのくせ目は真っ赤で嫌な光を放っている。そして縦に裂けた口でマーシャを食べてしまおうと追いかけてくるのだ。
ベーギー・バーギーはその子が一番怖がる姿に変身するので、巨大な狼だったり、フクロウ頭で一つ目の男だったり、実に多彩だ。誰が考えだしたかはわからないが、親が子を躾けるために生みだした、想像上の怪物はこの国のあちこちで語られる。
例えば今この瞬間、マーシャの目の前にいきなり現れた男などーーー。
「…」
マーシャは悲鳴をあげなかった。理解が追いつかなかったのだ。身体は固まり、足は地面に張りついたように離れない。
男は灰色のローブを着た小男だった。禿げた頭には髪が数本あちこちに散らばっていて、額との境目がわからない。白く濁った目は大きく出張り、どこを見ているのかわからない。反対に鼻や口は小さくて、よく見なくては見つけられないほどだ。土気色した肌の、骨張った指がマーシャを指して、何事かを呟こうとした。
一閃。
マーシャは息を呑んだ。と、自身で気づく前に冷や汗が流れた。…リセラドが剣技を使ったのだと、その背に庇われてようやく理解できた。
「“狼の目”だな?」
リセラドは低い声で言った。強い威圧感が伝わってきて、マーシャは自分に向けられたものではないのに息が詰まった。
「そうとも、“黄金の子”」
小男が腕を下ろして応えた。しゃがれた高めの声で、喜びを隠しきれていない様子だった。
地面には、リセラドが切り落とした小男の手首がある。だというのに、小男は痛がる素振りさえ見せなかった。この光景を見ずにすんだマーシャは幸運だった。卒倒をくり返すはめにはならなかったのだから。
(“黄金の子”?)
マーシャは小男が言った言葉を反芻する。聞きなれない言葉に疑問符を浮かべたが、リセラドが発した怒気に霧散してしまった。
「違う」
「違うものか、貴様の祖先が遺した莫大な遺産。“失われし古代魔法”。その名をーー」
マーシャの肌を風が撫でた。普通の風ではなく、リセラドの剣が空を裂いたのだと感覚で理解した。
「おう、おう。血の気の多いことだ」
マーシャの後ろから声が聞こえた。降りかえると、手首を持った小男がそこに立っている。
リセラドが反応すると同時に、手首の先から灰色の煙があがった。とっさにマーシャをかき抱くと、煙をできるだけ吸わないようにと自身の胸に押しつけた。
「また会おうぞ、“黄金の子”よ!」
小男は言いたいだけ言うと、煙に紛れて消えてしまった。それから煙が落ちつくまでどのくらい経ったのか、リセラドがもう大丈夫だと判断し、離すと、顔を真っ赤にしたマーシャがいた。
「シスター、御無礼を」
さっと距離を取ったリセラドに、マーシャは同じだけ距離を詰めた。驚くリセラドに、マーシャは口の端を歪めてみせる。
「お気になさらず! ほら、大丈夫なんです! 命の恩人に怯えたりなんてしません!」
リセラドの胸の辺りで、マーシャの青い瞳を縁取るまつ毛が震えている。彼は一瞬だけ目を見開いたが、片膝をつき、意識して柔らかい声をだした。
「シスター、その深き思いやり、心より痛みいります。…ですが、近すぎます」
「! 失礼しました!」
マーシャの顔が今度は違う意味で赤くなった。結婚もしていない者同士の距離ではない。慌てて二、三歩後ろに下がると、騎士は立ちあがり、怪我や不調はないかマーシャを心配した。
「いいえ、騎士様がすぐ助けてくださったので、何ともありません」
「それならば良かった…一つお聞かせ願いたいのですが、どこへ行こうとしていたのです?」
「村の井戸をお借りしようと」
「お付きあい致します」
リセラドは微笑むと、自身が先頭に立った。マーシャはその数歩後をついていく。騎士の大きな背を見ながら、マーシャはベーギー・バーギーの歌を思い返していた。
(ベーギー・バーギー いいこなら 騎士さま出てきて お化けを ばっさり♪)