僕の素顔を君に捧ぐ
優花の悲しみ
優花、逃げろ
火事だ、という声が聞こえる。
その声が徐々に近づき、叫び声だとはっきりわかった瞬間に目を開いた。
部屋は暗かったので深夜だと分かったが、窓の外の端に赤い光が見え、猛烈な煙の臭いがあっという間に部屋に充満した。
優花は飛び起き、財布、電話、通帳と印鑑をバッグに入れ、ダウンコートと枕もとの愛読書を抱いて部屋を飛び出した。
幸い外階段は煽られる炎から逃れていて、駆け下りることができた。人だかりに飛び込むように逃げ込み振り返る。
自分が裸足だと気づくのと同時に、春江さんの背中が脳裏をよぎって叫んだ。
「中に、中におばあちゃんが」
見上げると優花の部屋の隣のドアから勢いよく炎が噴き出ている。
裏に回って反対側の窓を確認すると、春江さんの部屋の窓にかかるカーテンはすでに真っ黒に焼けこげ、部屋の中は赤い炎に染められている。
「春江さん!」
叫んで階段を上ろうとする優花を、いくつもの手が引きとめる。
「だめだ、間に合わない」
サイレンの音。上空にはヘリコプターが飛び始める。ざわめきは次第に大きくなり、優花は瞬く間に広がる赤い魔物から目が離せないでいた。
「ああ、春江さん…」
パジャマしか身に着けていない優花の、全身が震える。寒さではなく、恐ろしさと悲しさ、無力感からだった。
膝の力が抜け、わなわなと地面に座り込みそうになったところを、がっちりと肩を抱いてひきあげられた。直後ふわりと体が宙を舞う心地になり、視界がぐらりと揺れた。
警官の制服の胸元が頬に触れる。優花は抱き上げられ、炎の渦中から遠くへ引き離された。