僕の素顔を君に捧ぐ
嫌だ…離れたくない。優花の胸がざわめく。

私、如月さんともっと一緒に居たい。その言葉を堪えたら、涙が出そうになった。

…パソコンに向かいながら眠る如月、珈琲を淹れてくれる如月、変装までして役所に付き添ってくれた如月。今までの場面がまぶたの裏によぎった。辛いこともあったけど、とても満ち足りた日々だった。けれども。

仕事の疲れのせいで不安定な状態であったにせよ、如月は甘い接吻をくれた。
この瞬間の思い出を最後に、離れなくてはいけないと思った。


「今まで、ありがとうございました」

優花は振り切るように立ち上がり、頭を深く下げた。
一刻も早くここから出なければ、どうにかなってしまいそうだった。荷物をキャリーケースに詰め込んで、逃げ出すように部屋を飛び出した。

如月の家を出た後は、弟が住む関西のアパートに身を寄せることになっていた。
優花は駅に向かう途中、渋谷のスクランブル交差点を歩きながら、大きなモニターにドラマの予告が流れるのを見上げた。

警察学校の教官の制服を着た如月が、冷酷な表情で映っている。

「この鬼教官にあなたはついていけますか」という副題がついたドラマだった。

「お前は死ぬ気で仕事をしたことがないのか」

映像の中で、如月の役はこう、怒声を上げていた。言われた覚えのある「セリフ」だった。

「抜けたって、役が…抜けたってこと?」

交差点の真ん中で立ち止まった優花は呟いた。

それまでの冷徹な如月は、この教官の役を演じている最中、のめり込みすぎてキャラクターに染まり切ってしまっていたということだったのか。

―憑依型俳優

事前に如月琉星をリサーチした際に、彼をそのように表現した記事があったことを思い出す。役が憑依してしまっていたと考えれば、急に落ち込んだり、苛立ったり、らしくない言葉で叱ったりするのも合点がいった。
あれは、如月の素顔ではなかったのだ。
< 31 / 34 >

この作品をシェア

pagetop