初めては好きな人と。
つぎの瞬間には、粉々に跡形もなく破かれた婚姻届が宙を舞う。
その向こう、幼い頃の面影を確かに残した彼・護が私を見つめていた。
あの日と、何も変わらない、慈愛に満ちた鳶色の瞳。
何よりも、目じりにぽつんと佇むほくろが、彼が護だという確たる証拠だ。
「なっ、何をする…っ!」
紙吹雪と化して降り注ぐそれを、洋二の父・博史が忌々しそうに手で振り払った。隣の夫人は洋二に付いた紙屑を必死に払い落していた。
「だから、縁談は無かったことになった、と言っている。わからないのか」
先ほど私に向けていた眼差しとは打って変わって、ナイフのように鋭利な視線を多田野家へと向ける護に気圧されながらも、博史は言う。
「そ、そんな勝手なこと許されるものか!縁談を断ればっ、こいつの事務所は倒産するしかないんだぞ!」
そう、お見合いと称した顔合わせの席で、この男は私に同じことを言ったのだ。洋二との結婚を断われば、山崎建築事務所に仕事は二度と下ろさない。そうなれば倒産するしかないが、それでも良いのか、と。
私を娘のように接してくれてきた山崎夫妻に恩を感じていた私にとって、事務所の倒産を到底見過ごせるわけもなく、この結婚を受け入れるほか選択肢は残されていなかった。
博史の言葉に、山崎夫妻がハッとしたように私に振り向く。二人はこの話を知らなかった。
「美月ちゃん…、もしかして…それでこの結婚を…?」
申し訳なさそうな二人の視線に、私はどうにか笑って返すので精一杯だ。
全てを察した二人は、「私が不甲斐ないせいで、美月ちゃんにこんなツラいことをさせてしまうところだった…」「ごめんなさい」と謝罪を口にして頭を下げてきた。
私は「お二人のせいじゃありませんから、どうか気にしないでください、自分で決めたことなんです」と二人に伝える。
事実、この二人は何も悪くないのだから。悪いのは、立場と権力を振りかざしてこんな理不尽な要求をしてきた多田野なのだ。
「山崎さん、倒産の心配はありませんのでどうか安心してください」
「ど、どういうことでしょうか」
「私は、こういう者です」
護は、胸ポケットから名刺入れを取り出し、社長に差し出した。
「比田井グループ CSOの比田井護と申します。以降、御社への仕事は弊社から直接依頼させていただきます」
「な…、比田井グループだと…?!」
蚊帳の外にいた博史が驚愕の声をあげる。
個人事務所の事務員でも、その名は耳にしたことがあるほどの大手企業。建築業界だけでなく幅広い業界に進出し、最近ではデジタル分野にも手を広げてさらなる成長を遂げている企業だ。
「それから、多田野社長」
護は、再度厳しい表情を博史に向ける。
「貴社のことを調べさせたところ、再三にわたり指導したのにも関わらず多重下請けが未だ改善されていませんでした」
ギロリと睨まれ、痛いところを突かれた博史は、ゴクリと唾を飲み込む。先ほどまでの威勢はどうしたのか、すっかり蛇に睨まれた蛙だった。
「今後は貴社との付き合いも考え直す必要があるようですね」
「そ、そんなっ…、うちは御社からの仕事が8割を占めてるんですよ?!そんなことをされたらうちはおしまいだ!ど、どうか、それだけは!」
「忠告はしました。恨むなら自身の行いを恨んでください」
護は、私たちに向き直ると、「場所を変えて少し話せますか」と言い、私たちを違う場所へと案内した。
狼狽して奇声を発しながら護に縋りつこうとする博史を、護のそばにいた部下が止めに入る。
息子の洋二と母親は呆然自失として宙を見つめていた。
彼らから解放された私は、胸のすく思いで護の後を付いていった。
その向こう、幼い頃の面影を確かに残した彼・護が私を見つめていた。
あの日と、何も変わらない、慈愛に満ちた鳶色の瞳。
何よりも、目じりにぽつんと佇むほくろが、彼が護だという確たる証拠だ。
「なっ、何をする…っ!」
紙吹雪と化して降り注ぐそれを、洋二の父・博史が忌々しそうに手で振り払った。隣の夫人は洋二に付いた紙屑を必死に払い落していた。
「だから、縁談は無かったことになった、と言っている。わからないのか」
先ほど私に向けていた眼差しとは打って変わって、ナイフのように鋭利な視線を多田野家へと向ける護に気圧されながらも、博史は言う。
「そ、そんな勝手なこと許されるものか!縁談を断ればっ、こいつの事務所は倒産するしかないんだぞ!」
そう、お見合いと称した顔合わせの席で、この男は私に同じことを言ったのだ。洋二との結婚を断われば、山崎建築事務所に仕事は二度と下ろさない。そうなれば倒産するしかないが、それでも良いのか、と。
私を娘のように接してくれてきた山崎夫妻に恩を感じていた私にとって、事務所の倒産を到底見過ごせるわけもなく、この結婚を受け入れるほか選択肢は残されていなかった。
博史の言葉に、山崎夫妻がハッとしたように私に振り向く。二人はこの話を知らなかった。
「美月ちゃん…、もしかして…それでこの結婚を…?」
申し訳なさそうな二人の視線に、私はどうにか笑って返すので精一杯だ。
全てを察した二人は、「私が不甲斐ないせいで、美月ちゃんにこんなツラいことをさせてしまうところだった…」「ごめんなさい」と謝罪を口にして頭を下げてきた。
私は「お二人のせいじゃありませんから、どうか気にしないでください、自分で決めたことなんです」と二人に伝える。
事実、この二人は何も悪くないのだから。悪いのは、立場と権力を振りかざしてこんな理不尽な要求をしてきた多田野なのだ。
「山崎さん、倒産の心配はありませんのでどうか安心してください」
「ど、どういうことでしょうか」
「私は、こういう者です」
護は、胸ポケットから名刺入れを取り出し、社長に差し出した。
「比田井グループ CSOの比田井護と申します。以降、御社への仕事は弊社から直接依頼させていただきます」
「な…、比田井グループだと…?!」
蚊帳の外にいた博史が驚愕の声をあげる。
個人事務所の事務員でも、その名は耳にしたことがあるほどの大手企業。建築業界だけでなく幅広い業界に進出し、最近ではデジタル分野にも手を広げてさらなる成長を遂げている企業だ。
「それから、多田野社長」
護は、再度厳しい表情を博史に向ける。
「貴社のことを調べさせたところ、再三にわたり指導したのにも関わらず多重下請けが未だ改善されていませんでした」
ギロリと睨まれ、痛いところを突かれた博史は、ゴクリと唾を飲み込む。先ほどまでの威勢はどうしたのか、すっかり蛇に睨まれた蛙だった。
「今後は貴社との付き合いも考え直す必要があるようですね」
「そ、そんなっ…、うちは御社からの仕事が8割を占めてるんですよ?!そんなことをされたらうちはおしまいだ!ど、どうか、それだけは!」
「忠告はしました。恨むなら自身の行いを恨んでください」
護は、私たちに向き直ると、「場所を変えて少し話せますか」と言い、私たちを違う場所へと案内した。
狼狽して奇声を発しながら護に縋りつこうとする博史を、護のそばにいた部下が止めに入る。
息子の洋二と母親は呆然自失として宙を見つめていた。
彼らから解放された私は、胸のすく思いで護の後を付いていった。