LOVE, HATE + LUST
3-3
木曜日、午前8時半。
私が送ったメッセージから、ずっと返信はない。
きっと、すごくショックで、大いに悩んでいるのだろうと思う。無理もないよね。
昨夜はほとんど、眠れなかった。目を閉じると、見せられたあの天使のような女の子の笑顔が思い浮かんで、いろいろなことを考えてしまった。
「うわっ! なにそのクマ!」
翔ちゃんが私を見て開口一番におののいた。そして万年クマに悩む2年先輩の秘書からコンシーラーを借りてきて、ちょちょいと私のクマを隠してくれた。
あの天使のことは、まだ翔ちゃんにも話せない。私が何も言わないでいるのを長年の付き合いの翔ちゃんは察してくれて、何も訊かないでいてくれる。
ミチカ先輩が短いタイ出張から戻り、お土産を配ってくれる。私と翔ちゃんは彼女にスパのお礼を言ってその日のフレンチのコースランチをおごらせてもらった。
午後は専務の外出に同行して、夕方に帰社、定時から30分残業まで業務報告などの書類整理。
午後7時50分。
暗証番号を押してドアを開ける。室内は、間接照明だけで薄暗い。
すでに帰宅していた駿也は、まだ着替えずにソファに座って、ニュースの画面をぼんやりと見つめていた。
「ご飯食べたの?」
「まだ」
「コンビニで買ってきたから、食べよう」
私は海老のトマトクリームパスタをふたつ温めて、テーブルの上にセッティングする。その間、駿也は壊れた人形のように動かない。
「食べよ」
フォークを差し出すと、彼はやっと気が付いて手を出す。
「朔」
「うん」
「昨日、初めて知ったんだけど」
「うん」
「俺には、子供がいるって」
「うん。見た。天使みたいな女の子」
「そうか。見たのか」
「うん、見た。彼女と、話したから」
「……」
「冷めちゃうよ、食べて」
「……」
「俺は母子家庭で育ったんだ。今でこそ母は再婚して、俺には弟がいるけど……小さい頃は、母は一人で俺を育てていた」
「うん」
「父については死んだと聞かされていたけど、高校に合格した時、一度だけ母が本当のことを話してくれた。結婚したかったけど、いろいろな問題が多すぎて結婚できなかったって。本当は今でも生きていて、そこそこ地位が高くて、家族もいて、俺のことは知らないって」
「うん」
フォークを指に絡めたまま、駿也は顔を両手で覆って深いため息をついた。私はそっとフォークを彼の指から抜き取ってランチョンマットの上に置いた。そして彼の隣に回り込み、背後のソファに座ってそっと頭を撫でる。
「3年前」
私の言葉にぴくりと駿也の肩が動く。
「嫌いになって別れたんじゃないよ、ね?」
頭がかすかに動く。
「駿也」
私は彼の頭を持ち上げて視線を合わせる。
「今なら、まだ、間に合うと思うよ。だから彼女は、なりふり構わずに追いかけてきたんだよ。自分のためだけじゃなくて、あのかわいい女の子のためにも」
駿也の瞳が大きく見開かれる。驚き、困惑、混乱、悲しみとまだ見ぬものへの期待と愛情。
「でも俺は朔を……」
「好きになってくれて、嬉しかった。大切にしてくれたし、一緒に生きて行こうとプロポーズまでしてくれた。正直今でも、私のどこにそんなに惚れこんでるのか、わかんないけどね。でも、あのかわいい存在には勝てないと思う。知ってる? 3歳くらいって、一番かわいい盛りなんだよ? 見逃したくないでしょ?」
駿也は私の肩に額を乗せた。だから彼がどんな表情をしているのかわからない。私は小さな子供をあやすように、大きな背中をポンポンと叩く。
「彼女たちのこと、もっとよく話し合ってみて。どうしたいか決まったら、教えてね。私たちの結婚は、ナシにしよう」
午後9時半。
帰宅。
へなへなと、玄関にへたり込む。
私にしてはうまくやれた、と思う。
この2年で、私の中で駿也の存在はどんどん大きくなって、無視できなくなり、存在するのが当然で、それに安心していた。
これは一応、失恋というものだと思う。
別れがはっきりとした失恋は、生まれて初めてだ。
ぽっかりと、大きな空洞になった部分に、どれくらいで慣れるだろう?
いままでは、失恋したらどうしていたっけ? 全く思い浮かばない。
「ばかだね、朔」
翔ちゃんが呆れて言いそうなセリフを皮肉な口調をまねて呟いてみる。
夕飯を食べそこなったのに、なぜかおなかが減らない。明日も、忙しい。日帰りの出張もあるし。昨夜は眠れなかったから、そうだ、ラベンダーの香油でも入れて、ゆっくりとお風呂につかってから寝よう。
のろのろと靴を脱ぎ、バッグを玄関に置き去りに、通路のお風呂のボタンを押す。
壁伝いにふらふらと歩き、ソファにすとんと座る。
いいじゃない? ちょうど、結婚には不安だったから。
だからと言って、2年間そばにいた人がいなくなるのは……また別の話。
矛盾したふたつの気持ちがせめぎ合う。
朔。
耳に残る、私を呼ぶときのあの優しい声。あんなに私のことを好きになってくれる人は、もうこのさき誰も現れないかもしれない。
アンナさんがもっと早く、駿也を追いかけてきていたらよかったのに。
いくらひとめぼれされたって口説かれても、そのまま振り続ければよかったかもしれない。
そんなどうしようもないことが、頭の中で渦巻いている。
「オフロガワキマシタ」
給湯器がしゃべる。はいはい、と返事をして立ち上がり、お風呂場へ向かう。
もう、いい。
これで、いい。
これで、いいのだ。