LOVE, HATE + LUST
3-4
それから数日は、どうやって過ごしたかあまりよく覚えていない。
金曜日はひたすら働いて、土曜日は翔ちゃんちにおよばれして、翔ちゃんと翔ちゃんの彼と一緒の飲み会をした。ワインが好きな私のために、ふたりはとっておきのヴィンテージワインを開けてくれた。結構さばさばしていられたのは、傷つけられたわけじゃなかったからかな?
でも、喪失感はかなり大きかったみたいで、世界を連続5周してきたくらいの疲労感にさいなまれていた。
「ばかだね、朔」
案の定、予想通りの言葉を翔ちゃんから言われる。
でもそれ以上は何も言わなかった。それで、週末中、ずっと一緒にいてくれた。3人川の字で寝て、何もせずにだらだらっと過ごした。
木曜日、専務が夕飯御一緒しませんか? というのでご一緒させていただきますと答えた。
富小路ファミリー御用達のステーキ店。5ツ星の老舗ホテルの地下1階にある。
私も社長の第3秘書だったころから、たびたび連れてきてもらっている。
それにしても、ここ数日、食べるものに気を配っていなかったけど、おいしい肉はどんな時でもおいしいんだなと実感する。
「お祝いさせてください」
にっこり、専務が微笑む。美しいものは心を癒してくれる。
「はい? あ」
それって……
「ご結婚が決まったお祝いに、日ごろの感謝を込めてこちらを」
専務は2リットルのペットボトルほどの大きさの箱をくれる。
「あの……これは?」
「以前、フランスに出張した時に、おいしいとおっしゃっていたワインです」
「えっ?」
「もちろん、ご結婚された際には別に、ちゃんとしたお祝いを贈らせていただきますよ」
なんてことだろう。うっかり、結婚がなくなったことをお伝えしていなかったことに気づく。
「あ、あの、その、専務、実は……」
私は目の前の和牛A5ランク級のゴージャスな笑顔から視線をテーブルに落とした。専務は「うん?」と首をかしげる。
「結婚、しないことになりました……」
「えっ?」
ごにょごにょと私の声がだんだん小さくなったので、専務はいぶかしげな表情になった。
「あの、山野井さん? いま何て……?」
私は顔を上げる。専務がびくっと顎を引く。
「結婚は、ナシになりました」
「……」
「……ですので、お祝いはその、いただけない、です」
「一体なぜ?」
「あ、はは。いろいろとありまして。そういうことで、また当分はこのままよろしくお願いいたします」
私は頭を下げる。
専務は何か言いかけては止めを3回ほど繰り返し、そして握りしめた手を口元に当てて咳払いしてから慎重に発言した。
「……私的なことなので答えていただかなくても結構ですが、圷さんと何かあったんですか?」
「何かあったとか、彼が悪いわけではないんですが、不可抗力というか、まぁ、仕方のないことというか。今後は……彼とは友人ということになるかと」
「そうですか。残念ですね……」
専務が目を伏せる。長いまつげ! どんな表情でも麗しい。
私がもじもじといただいた箱を専務の前に押し出すと、彼ははっとして優しいまなざしで箱を押し返す。
「ではこれは、元気になっていただくためのプレゼントにします」
ああ。本当に、なんて優しい上司。この世のすべての善意を形にしたようなおかた。
私のすべての運は、上司運に集中しているようだ。
店を出たところで専務の電話が鳴る。副社長からの半分私的な接待の呼び出しのようだった。
食事のお礼を伝え近くの書店に寄りたいのでお構いなくと、送りもタクシーも断る。専務は申し訳なさそうに「ではまた明日」と言って副社長御用達のクラブへタクシーで向かった。
1階のロビーでは、ウェイティングバーからピアノの生演奏が聞こえてくる。私はロビーのソファに座り、ぼんやりとピアノの旋律に耳を傾けた。
午後9時すぎ。
5ツ星ホテルは、ゴージャスな宮殿のよう。なんだっけ、学生の時に行ったウィーンの……シェーンブルン宮殿とか、フランスのヴェルサイユ宮殿みたい(どちらも原語では”城”だけど)。しばしその非日常的な雰囲気を楽しみたいと思った。
様々な人々が行きかう。日本人、中国人や白人、黒人。ビジネスマン、老夫婦、家族連れ、親子、恋人や若い夫婦。人込みは苦手だけど、なぜか今は少しだけ人恋しい。ソファに座って人間観察をしていると、自分が透明人間になったような気になってくる。
もう少し、この夢の中のような雰囲気を楽しみたい。
真っ暗で静まり返った部屋に帰るのは、もう少しあとでもいい。
あっ。
私はふと、妙案を思いついた。
贅沢なディナーの後は、もうちょっとぐらいは贅沢してみたい。
私は立ち上がり、宿泊用ではないほうのエレベーターに歩み寄る。
19階のパネルにタッチする。そこは「Cloud 9」というバーラウンジ。初めてのボーナスが出たときに、翔ちゃんと一度だけ行ったことがある。
ガラスのエレベーターでふわりと上昇する。本当に雲の上まで行くみたい。
扉が開く。雲のてっぺんに到着。
「いらっしゃいませ」
「ひとりです。ワインの持ち込みお願いします」
入り口のスタッフに専務からもらった箱を渡す。白髪混じりの品の良い男性スタッフは、その箱を見てはっと息をのむ。
「かしこまりました。こちらへどうぞ」
一番奥の、窓際のカウンター席に案内してくれた。フロアには何組かのお客が静かに楽しんでいる。シガー専用のカラスで仕切られた席にも、外国人のビジネスマン風の人たちがいる。
私が案内された席の周りにはまだほかの客はいない。女一人、(おそらくはすごく高級な)ワインを持ち込みで。私が一人で静かに飲みたいと、彼は即座に状況を予測したのだろうか。ベテランスタッフの配慮に拍手を送りたい。