LOVE, HATE + LUST
3-5
目の前で器用にソムリエナイフで開栓してくれたワインが、ボルドーグラスに優雅に注がれる。
「ワインが開くまで、こちらをどうぞ」
女性ソムリエが大きな房付き干しブドウと白イチジクをくれる。
ごゆっくり、と彼女は去っていく。お礼を言って私は目の前に広がる夜景を堪能する。
3つくらい離れた席に、若い男女が一組座る。でも気にならない。
ここ数日でいろいろなことがあった。でも不思議と、悲しくはない。
喪失感は大きいけど、仕方がない。もともと持っていなかったものを持ち慣れてきたころにそれがなくなったのだから、本当ははじめと同じ、ゼロに戻っただけ。
私にもいつか、9000キロの距離を追いかけてでも失いたくないような情熱を、知ることができるのかな?
いや、もしかしたら一生ないかもしれないけれど。
はは。そのほうが確率高いだろうな。
「あ」
今、気が付いた。ボトルの首に、麻ひもで白いタグが付けられている。
万年筆で”Félicitations!”と書かれている。その文字は専務の書いたもの。ああ、なんか、ここまで真心こめたプレゼントなのに、悪いことをしな。結婚のお祝いでないなら、元気になるためのプレゼントだなんて。
グラスを持ち上げる。夜空に透かして見ると、黒っぽいけど端のほうは深い赤紫。少し動かしただけで懐かしい香りが広がった。
それはまだ専務つきの秘書になって1年目、初めての海外出張の時。会長の長年のご友人宅を、会長のお遣いで訪問した時に飲んだワイン。私が生まれて初めて、本当に感動したワインだったのを、専務は覚えていたらしい。
グラスの中に広がるアロマを深く吸い込むと、その時のことが鮮明に思い出される。ひとくち、口の中に含む。わぁ、やっぱりなんか違う。何もかもがどうでもよくなるくらい、うっとりしてしまう。
「?」
うん?
なんか……
視線を感じる。
「……」
右側から視線を感じ、首をちょっとだけかしげてそれをたどる。
うっ。
少し離れた席のカップルの男性のほうが、こちらを見ている。いや、私ではなく、私の手元のワインボトルを、ガン見している。
男性は私の視線に気づき、はっと我に返り浅く頭を下げる。
「あ、失礼。突然、香りが漂ってきたもので、つい」
低い声。
私は穏やかな気持ちで視線を下げて、口元だけ微笑む。視線をずらせば、たとえ会話していてもその人を直視しないで済む。カップルの男性を直視する必要はないし。男性もすぐに目の前の夜景に向きなおった。
ピークドラペルの艶やかなネイビーの細身のスーツ姿。かなりの長身。女性のほうはミディアム丈の赤いパーティドレス。
たぶん、このホテルで開かれた何かのパーティか、あるいは結婚パーティの帰りなのかもしれない。
1杯目を飲み干して、グラスのふちを指先でたどる。クリスタルが共鳴して、涼やかな音をかすかに立てる。そんな些細なことににやつきながら房付き干しブドウをひとつかじると、凝縮された果実の甘みが口の中に広がる。ああ、なんて贅沢な現実逃避。
私は大いに気が緩み、このままここでもうすこし現実逃避して、散財ついでに泊まってしまおうと思い始める。
2杯目を注ごうとボトルに手をかける。ん? 持ち上がらない。
「あ、あー……」
ふいに右側から不安そうな声が聞こえる。そちらを見ると、先ほどの男性だった。やはり私ではなく、ワインをガン見している。私はふっと笑みを漏らす。
「あなた……私がこの、これをこぼすことを心配しているんですか?」
男性はふう、とため息をついてうなずいた。
「あの、もったいな……いや、ちょっと危なっかしいので、よかったら代わりに注ぎますよ」
男性が申し出る。
「ええ? あなたソムリエなんですか? へへ。では、よろしくお願いします」
「あ、いや、違うけど……まぁ、いいか。はい、それじゃ」
男性はスツールから立ち上がり、大股で一歩半、こちらに近づく。そしてボトルを持つと、ひょいと高い位置からグラスに注ぐ。あまりの手際の良さになんだか見ていて嬉しくなる。くるりとボトルを半回転させ、彼はグラスの脚を持ち、私の前に差し出した。
その指の長さと美しさに、私はうっとりと見とれる。
開いたワインの豊潤な香りがふわりと広がる。彼はそれを深く吸い込んでゆっくりと息を吐く。
「たまらない香りだ」
すでに気が緩んでいた私はぺこりと頭を下げて、目を半開きにしたままへらへらしながら言った。
「ワインがお好きなんですね」
「はい、まあ」
「さっきからこれが気になって仕方なさそうですね」
私はボトルを指でつつく。
「……否定はできない」
彼は悔しそうに足もとに視線を落とす。はは、と私は笑う。
「では、注いでくださったお礼に、おすそ分けしましょうか?」
「えっ?」
男性は驚くが、嬉しそうだ。
「本当に?」
「どうせ、飲み切れないから持ち帰るだけだし、良ければ、お連れのかたも……あれ?」
男性が座っていたほうの席を見ると、赤いドレスの女性の姿がない。お手洗いにでも行っているのか。
「連れ? ああ、さっきのか。あれは、連れでも何でもない、パーティから勝手についてきただけ。うっとうしいんでいなくなってもらった」
ふん、と冷たく言い捨てる。まぁ、私には何の関係もないけど。
「あら、そうでしたか。では、どうぞ。あ、グラス……」
「今すぐ! 持ってくるんで‼」
男性はもの凄い素早さでカウンターへ向かった。私が気が変わるとでも思ったのか。本当にワイン好きなんだな。
なんだか、おかしなことになった?
まあ、いいか。