LOVE, HATE + LUST
第5話
5-1
一番奥の座敷席。焼肉屋のような無煙グリルがテーブルごとについている。
「浜焼きコース、2人前お願いします。飲み物は……」
ジャケットを畳みタイを緩めながら専務は私をちらりと見る。私は軽くうなずいて続きをおばちゃんに告げる。
「ウーロン茶、ふたつで」
おばちゃんがグリルに火をつけて注文を通しに去ると、専務は苦笑した。
「ここには浜焼きコースしかないんです」
「問題ありません」
「さきほど会議でタイやノルウェーや三陸の海産物の話が出て。小さいころ、会長に連れてきてもらったここの浜焼きを思い出してしまったんです」
「会長といらしたんですか?」
「中学生のころに、兄と連れてきてもらったんです。まだあったんですね、確信はなかったけど」
確かに、年季の入った店構え。漁師小屋のイメージのようだ。
どっさりと、籠いっぱいにサザエ、ハマグリ、アワビ、クルマエビに手長エビ、ボタンエビ、鯛やイカの切り身にマグロのカマ、うようよ動くウニなどが載せられてきて私は驚きを飲み込む。
イタリア製の銀のカフスを外して袖まくりしようとする専務を、慌てて止めようとする。
「あ、あ、私が焼きます!」
専務はふっと笑んで首を横に振った。
「これも楽しみの一つなので、山野井さんはおとなしく焼き上がりをお待ちください」
尊い。なんという紳士。おつきの秘書の特権、とは思わない。しかし、付随する大幸運だとは思う。私は、世界一上司運がいいのだと自負している。
それももうすぐ、終わるけどね……そう、伝えないと。
「あの、専務。来年の春辺りに、退職しようと思います」
「え?」
ハマグリを網に置く専務の手が止まる。驚いた表情。そして現れる狼狽。
「それは……先日のことをお気になさってのことですか?」
結婚すると報告したのに、なしになったこと。私は首を横に振る。
「いいえ。それだけなら……多少は恥ずかしいですが、辞めるほどのことではないので」
「では、なぜ?」
「父が実家の離れの書庫を改装して、ブックカフェを開きたいと言ったんです。それを、私と兄でやっていこうってことになって。あ、誤解なさらないでくださいね。今の仕事には不満はないですし、むしろすごく良くしていただいてやりがいがあると思っています」
私は両手を振る。専務は黙ってエビや貝類を網に乗せながら聞いている。
「ご存じのように父は国文学の教授なんですが、父の蔵書の詰まったその書庫は小さなころからの私の遊び場だったんです。私が、世界一好きな場所で。そこに一日中、毎日いられたらどんなに幸せかなって」
専務は穏やかな笑顔を浮かべる。
「そうですか。残念ですが、仕方がないですね。あなたの人生ですから、無理に引き留めることはできませんね」
「私にとっては荷が重すぎる大役でしたが、専務が上司でいてくださったことは、会社員としてはありえないほどの幸運でした」
「こちらこそ。どんなにあなたに支えられたことか、感謝してもしきれませんよ。ブックカフェ、成功をお祈りします。時々は……お邪魔してもよろしいでしょうか?」
私ははっと目を見開く。
秘書をやめれば、それで縁が切れると思っていたから。だって、住む世界が違い過ぎるから。
そういう発想は、全く思いつかなかった!
上司というよりは甘えたがっているゴールデンレトリーバーみたいで、なんだかかわいく見えて私は笑いながらこくこくとうなずいた。
「もちろんです。お好きなコーヒーを、専務専用の裏メニューとして用意しておきます」
専務はふわりと柔らかく笑んだ。はぁ、眼福、眼福。
「ありがとう。あなたの後任は……慣れているから、麻生さんにお願いしようと思うので、時々、一緒にさぼりに行かせていただきます」
「それは……さぼりに来たとおっしゃらなければ、知らないふりして大歓迎します。あ、まさにそれもご提案しようと思っていたんです。私の後任は麻生君でどうですかって。2年前のような騒ぎはお嫌でしょうから……」
「さすが、よくわかっていらっしゃる」
専務はくすくすと笑いながら、トングでつぎつぎと私のお皿に焼きあがった魚介類を取ってくれた。
「さぁ、冷めないうちにどうぞ」
ハマグリの貝殻の上で焦げた醤油の香ばしい香りにおなかがぐうと鳴く。
私と専務は新鮮な魚介類の遅いお昼ご飯をのんびりと楽しんだ。
そしてついでに港のあたりを散歩して、あたり一面をオレンジ一色に染める大きな夕日まで堪能した。
午後はさぼりましょう。市場調査に出ていたことにすればいいので、と専務が言った。気の小さい私は多少の罪悪感に胸を痛めたけれど、まじめを絵にかいたような専務は意外と週の初めからのおさぼりを楽しんでいるみたいだった。
2年間もずっと一緒に仕事をしていると、意外な一面も見えてくる。
なんでもうまくこなす、仕事がデキるかっこいい上司である専務が実は人が見ていないところで結構無理や努力を重ねていることや、重くのしかかる社長や副社長からの期待のプレッシャーに時々バランスを崩しそうになることとか……そういうこところも見えてしまう。
この2年間、専務は恋愛はしていなかったようだけど、そういう危ういところも理解して包み込んでくれるような女性と出会ってくれればいいと思う。
失恋したばかりの私が、えらいことは言えないけれど……
私の上司は中身も中身もすごくいい人だから、絶対に幸せになってほしい。
夕方のラッシュアワーに巻き込まれている間、私たちはテーマ別しりとりをしてばか笑いをした。時々、海外出張中でもやっている退屈しのぎの遊び。
ハイテンションのままふたりで社に戻り、専務は執務室、私は秘書室へ。
明日の取引先訪問の準備をしていると翔ちゃんに給湯室に引っ張り込まれる。
「クアトロポルテでどこまでランチに行って、なんで専務まであんなハイテンション? ちゃんと辞めるって伝えたの?」
「浜焼き食べてきた。私用だから社用車は使えないって。ちゃんと伝えたよ。あ、後任は翔ちゃんになると思うよ。ブックカフェに時々さぼりに来るって!」
翔ちゃんは眉をひそめ、私をじっと見つめてから浅いため息をついた。
「なるほど、そうきたか……」
「なにが?」
「いや、何でもない。ま、それはそれで面白いからいいか」
なんのはなし? と訊いても、翔ちゃんははぐらかして教えてくれなかった。
ま、楽しかったし、いいか。