LOVE, HATE ＋ LUST

第６話

6-1

「ああああ、あの、そ、そ、ソウさ、ん……？」

「ただのソウでいいよ。なにせもうすでにかなり結構深い仲……」

キッチンのテーブル。角(かど)向かいに座っていた私は、上半身を乗り出して彼の口を慌てて両手でふさいだ。


暉(あき)の高校時代の友達のうちのひとりは、もう二度と会うことはないと思っていたあのひと(・・・・)だった。

彼は渋谷蒼(しぶやそう)と名乗った。

あまりの衝撃にガクブル状態で腰砕けの私をキッチンのテーブル席に座らせて、ちょっと待っててと言ってグラスを暉の部屋に置いてくると、蒼は戻ってきた。


「ひゃっ⁉」

私は蒼の口元をふさいでいた手をぱっと宙に挙げた。指の間を舐められたのだ。彼はにやりと笑う。

「なんで逃げた？」

「逃げてなんて……会社に行かないといけなかったし、あなたはまだ眠っていたし……」

（いや、本当は逃げたけど）

「ちょっと起こせばよかっただろう？　俺、やり逃げされたの初めてだったんだけど」

「変な言い方はしないでほしい」

「事実だろ？　あんたは男をひっかけて誘って、やり逃……」

羞恥に耐えきれず、私はまた蒼の口をふさいだ。今度は指の隙間は開けないように気を付ける。

「ご……ごめんなさい……私が悪かったです……これでいいでしょうか？」

彼は再び私の手を外す。

「いや、良くないな。逃げた理由になってないし」

はぁ、と私は大きく息を吐く。

「そのほうが、あなたに迷惑がかからないかと思って」

「はあ。それはつまり」

蒼はぐっと端正な顔を近づけてきて、いたずらっ子のような何かをたくらんだ表情でにやりと笑った。

少し釣り気味の大きなアーモンドアイズがちょっと意地悪そう。長いまつげが頬に翳りを落とすのがすごく色っぽい。視線が落とされれば、きれいに通った鼻筋から薄い唇までに私の視線も自然とつられて移ってゆく。

彼はどんな表情をすればひと（＝女）を魅了できるのか、きっと知っている。いや、確実に知っていて、やっている。

腹黒だ！

たちが悪い！

「わかったんだ？　俺たちは、めちゃ相性がよかったって？」

私はうっ、と言葉に詰まる。

「そう思ったんだろう？　俺も思ったんだ。それなのに、逃げるとはね」

「そ……」

「でも」

私が言葉を発しかけたと同時に、蒼がそれを遮る。そして彼の少し伏せられていた目がまっすぐに私を見た。その強い視線に心臓を射抜かれて、私は一瞬、息をするのを忘れる。

「半年後帰国した時にまた会えると思ってたから、あの時はそのまま放っておいたんだ」

「それ、どういうこと？」

「　”I'm on cloud nine.”　って、酔っぱらって言ってたろう？　酔っぱらうと同じこと言うやつがいるよな？　今夜もワインバーで言ってたけど」

暉だ。

もともとは暉の口癖がうっかり移ったから。

「実はあのあんたが逃げた日の昼に、ちょうど帰国したばかりの暉と会ったんだ」

「えっ？」

そういえば、暉が私のところに来た時、友達に会ってきたって言ってた……それって……！

「あんた酔って愚痴ってるときに、世界中旅してまわってる糸の切れた凧みたいな双子の兄がいるって言ってたし。あいつにも、お前、双子の妹がいたよねって探りを入れたら、大きな商社で重役秘書をしていてちょっと抜けてておとなしめだって聞いたから。バーでは服装とかしぐさが、秘書っぽいなとは思ったんだ」

「なにその恐ろしい洞察力……」

「いや、わかりやすいと思うけど。その2日後には、あいつのSNSに魔女が写ってて、タグが『いも』って」

「えっ？　あれを見て私だとわかったの!?」

「ここ」

蒼の人差し指が私の首筋の右側に触れる。

「！」

ぞわっとこそばゆさが襲ってきて、びくりと肩が震える。

「ここに、ホクロ。その少し下に、俺が付けた鬱血痕(ヒッキー)。魔女にもあったから、これ(・・)ですぐにわかった」

「んっ……」

こそばゆさに、およそ自分のものとは思えない変な声が出る。

つつ……と、人差し指がホクロから右の鎖骨の下をなぞり、肩のくぼみで止まる。

「ちなみに、ここと……それから」

そこからまた肌の上を軽く滑り、後ろに回ると頸椎のちょうど真ん中あたりで再び止まる。

「ここ、にもあるけど、ホクロ」

蒼はくすり、と笑う。私はこそばゆさに「ひゃっ」とまた変な声が出る。

「山野井朔。暉の双子の妹で、自己評価が低い女。でも、俺とは嘘みたいに相性がいい女。証拠に、指一本でちょっと触るだけでこの感度」

「私のこと、知ってて黙ってたのね？」

「朝、教えようと思ってたのに逃げるほうが悪いんだろう？　まあ、あの夜、あのバーで遇ったことは本当にすごい偶然だったと思うけど」

「暉には……私たちのこと……」

「まだ言ってない。ああいう自分大好き人間は、あんまり人のことは勘ぐってこないし。知らせたほうがいいなら、明日の朝教えてみようか？」

「なっ、なんで教えるのっ？」

「それは」

座っている椅子ごと引き寄せられて、私の脚は蒼の両足の間にとらわれる。少しだけ右の口角を意地悪そうに上げたきれいな顔がすっと近づいてきて、私はしどろもどろに視線を床に落とす。

耳元でふっと笑みがもれて、低い声が耳をくすぐる。

「あんたを確実に手に入れるため？」

すう、と切れ長の目が半眼になる。蛇ににらまれたカエルのようにフリーズして、私は魅惑的なまつ毛に見とれる。

「で、でも、あなたは、私とは真逆の側のひとでしょ……？」

唇と唇がかすかに触れる。ちろ、と赤い舌先が出てきて私の唇を舐めたので、また変な声が出る。

「ひゃっ」

「真逆が、どうした？　それが何？」

意地悪な唇は楽し気に、再び私の耳元に。

なぜ？　どうして？　低い声が注ぎ込まれるたびに尾てい骨にEMSの振動みたいに響いて、全身から力が抜けてゆく。

ふにゃっと耳たぶを甘嚙みされる。

逃げないと、あぶない。

理性が警告してくる。

でも……

その甘やかな快感を体が覚えていて、抵抗するどころかわくわくしている自分に気づく。

吸い付かれて、耳の後ろにちりちりとかすかな痛みが走る。

「とにかく、これからも仲よくしような、朔」




……あんなことは、もう起こらないだろうと思っていたけど。

名前も知らなかった私の「欲望」は突然、私の人生にレギュラー化したようだ。