LOVE, HATE + LUST
第7話
7-1
日曜日、朝の4時20分。
私ははっと目を覚ます。
そんなにたくさん眠れたわけではない。
まどろむ間もなく、目が勝手にひらく。
ふう、とため息。
おかしいな。なんなの、このもやっとした苦しさ。
24時間マラソンを走り終えた後みたいに(走ったことはないけど)、すごい疲労感。
秘書をしていた時、シドニーまで飛んで翌日には帰国した時よりもはるかにしんどい。
横になって目を閉じていても、起きて何かをしていてもしていなくても、ついついついつい、気が付くとひとりの人のことばかり考えている。
――昨日、私がうたた寝をしている間に、蒼はスーツケースの荷解きをして片づけをしていたみたいだった。
初めて来た、ヒトの家で寝るって私って……ありえない。
いやいやいや、蒼とのことに関してありえないことだらけなのは半年前から、だけど。
本当にどうかしてる。
私はもう、私が知ってる私じゃない。
目が覚めると、空はオレンジ色に染まっていた。
「やっと起きたのか?」
上半身だけ起こして、両手をついてぼんやりと空を眺めていると、蒼が私にデコピンをくらわす。
「ぁいっ!」
額を押さえると、手の甲にひんやりと冷たいものが当たる。よく冷えたミネラルウォーターのペットボトル。
「……ありがと」
蓋をねじって渡してくれる。
こくり、ひとくち、冷たい水が喉を流れる。
「ね」
ボトルのキャップを締めながら、私は傍らの蒼に話しかける。
「なに」
「子供の頃、ずっとここに住んでいたの?」
夕日の中、オレンジに染まった蒼は口元を引き上げる。
「そうだよ」
「暉とは、高校の時からの友達?」
「ああ。小中は、学区が違ったし。高1の時から」
「そうなのね。その頃、うちに来たことあったんでしょ? それなのに私たちは一度も会ったことがなかったって、なんか不思議」
「一度も会ったことがないなんて言い切れるか? 駅とかコンビニとか、図書館とかですれ違ってたかもしれない。それに、あんたの高校の文化祭にも誘われて行ったことあったし」
「そういわれると不思議じゃないかも。でもやっぱり、そういうことを今こうして話してるのは不思議」
蒼はくすっと笑うと私の頭をぐしゃぐしゃに撫でた。
「不思議じゃないよ。半年前あんたは逃げたけど、昨日俺がヒロトも巻き込んで勘ぐられないようにして暉の家で飲もうって提案していろいろ画策したから、いまこうしてあんたをまんまとうちに連れてきて、話してる」
長い指が私のこめかみからうなじ近くまでの髪を梳く。大きなてのひらが、私の耳をふわりと覆う。
私はその手にうっとりと頬を摺り寄せる。
「それとも……『不思議』なままにしておいたほうが、盛り上がるか?」
こめかみ、まなじり、額、鼻、頬。口の端、上唇、下唇。
蒼が私をついばむ。
下唇を甘噛みされて思わず吐息すると、その瞬間を待っていたかのように口づけは深くなる。
舌をからめとられてぼんやりと頭の中でつぶやく。
(もう、逃げられないかも)
私の唇を離すと、蒼は今度は耳元で静かに言う。
「逃げるなんて、もう考えるなよ?」
(恐るべし。考えを読まれた。)
「……考えて、ないから」
(……うそだけど)
蒼はふっと笑ってから小さく吐息する。
「残念だけど、時間切れ。用があるから戻って来いと暉がうるさくメッセージよこしてくる」
――そういうことで家に戻ると、暉は「昨日(同窓会で)約束した奴らと飲みだ!」と言って、蒼を連れて出かけて行った。
私は静かにひとり、冷蔵庫のあまりものをアレンジしたシンプルな夕飯を食べた。
でもなんだか苦しくて食欲がわかず、何をしてもそわそわして気持ちが落ち着かないので、長めのお風呂に入って早めに寝ることにした。
オレンジフラワーアブソリュート、イランイラン、ジャスミンとラベンダー。
心を落ち着かせるブレンドのアロマバス。
ミルクと蜂蜜を入れたカモミールティーも飲んだ。
ラベンダーのアロマミストを枕にスプレーしたし、ホットアイマスクもした。
なのに。
全く眠れない。
そうだ、行ってみたいところとか、楽しいことを考えよう。
富良野のラベンダー畑とか、バリ島の隠れ家ヴィラで受けるフルコースのスパとか……
以前は、想像しただけで心が浮き立ったこと。でも今は、それらすべてが色あせる。
目を閉じると、思い出すのはつないだ手の大きさとか、長い指とか、耳から私の内側に入り込んでくる低い声とか……
いくら違うことを考えても、いつのまにかすぐにまた考えてしまう。
もうほかのことは、考えられない。
頭の中から、蒼のことを追い出せない。
打ち消しても、打ち消しても、また現れる。なんなの? いったい、どうしちゃったの?
ああ、もうだめだ。
堕ちる。
堕ちてしまう。
堕ちるしかない。
溺れる確信しか、ない。
そうして寝返りを打ち続けていると、いつのまにか空が白んできた。
はぁ。
深いため息。
寝不足、2日目。
どうせもう眠れない、ということで朝ご飯でも作ろうと起きだす。
暉は帰っていないみたい。
蒼は、自分のところに帰ったのかな?
ふたりとも、玄関に靴はない。
そんなにおなかはすいてないけど、とりあえず。
エリンギ、マッシュルーム、玉ねぎをバターでソテーして、塩コショウ。
チキンストックと豆乳をくわえて。
もち麦を入れて軽く煮込む。
塩で味を調えたら出来上がり。もち麦豆乳スープ。
ひとくちすくって食べた時、玄関が開いてぼそぼそと話し声がした。
午前5時30分。
「あ、もう起きてたの?」
青白い顔の疲れ切った暉が廊下からキッチンを除く。犬のように宙に鼻を突き出してくんくんと匂いを嗅ぐ。
「朝飯……」
「食べたいの? 用意してあげようか?」
小さな子供のようにこくこくと頷いて、暉は首をひねり自分の背後を振り返る。
「蒼も食うよな?」
まずい。今や、名前を聞くだけでドキリとする。
「うん。その前に風呂借りるよ。お前は食べてろ」
蒼はそのままこちらも見ずに行ってしまう。
暉はふらふらと幽霊みたいにキッチンに入り、すとんとテーブルにつく。
「暉、すごく酒臭い。どんだけ飲んだの?」
私は暉と蒼の分を用意するために立ち上がる。
「んー。生中3杯に赤白合計1本半分くらいまでは覚えてるんだけど、そこからは不明……」
暉は座ったままウォーターサーバーから水を出してごくごくと飲む。
私はスープの鍋を火にかけて温めなおす。
「今まで飲んでたの?」
お皿を出しながら訊く。
「んー、まあ、そんな感じかな。なんかさ、行ってみたら合コンだったんだよ」
「……は?」
うっかり、スープを手にかけそうになった。