LOVE, HATE + LUST
8-2
ずっともやっと考え込んでいたせいで、ディーラーで説明を聞いて車を受け渡しされても私はどこか上の空だったので、代わりに蒼が話を聞いてくれていた。
「——おい、聞いてる?」
はっと我に返る。
「え? いたっ!」
ディーラーで車を待っているときに蒼が私の額を指ではじいた。
「ぼんやりしてないでちゃんと運転しろよ。俺がナビをしてやる」
蒼の言うとおりに車を走らせると、懐かしい場所に着いた。
海の近く、昔よく行っていた水族館。
「なつかしい……」
「学区は違うけど、小学生の時の遠足と言えばここだったよな?」
「うんうん。中学とか高校の頃も、ぼんやりしたいときにひとりでたまに来てた」
私は口元に笑みを浮かべる。そして蒼を見上げる。
「どうして、水族館?」
「なんとなく」
平日だから、そんなに混雑していない。
「行くぞ」
手を差し出す蒼に、私は苦笑する。
「今日は迷子にはなりそうにないよ?」
蒼はち、っと小さく舌打ちをしてあきれ顔で言う。
「そのへんの中学生より鈍すぎだろ」
そして有無を言わさず私の手を取って入口へ進む。
「う……わぁ!」
エスカレーターを降りると、目の前に広がるのは海の中の世界。巨大なアクリルのトンネルが続いている。
「なつかしい……」
「あほ面で口をぽかんと開けながら、上向いて歩いていていいよ。癒されるぞ」
蒼がつないだ手をちょっと上にあげる。
「そんな顔しなきゃいけない理由は何?」
「うん。あんたはあほ面で魚を見る。俺はそのあほ面を見て楽しむ」
「……」
なんてひどい言いよう。
手をつないで水族館なんて、まるっきりデートじゃない?
大波のように揺れまくっている私の混乱した気持ちが、手から伝わらないかと不安でしょうがない。
でも、すごくきれい。
アクアマリン一色の、水の底。
頭上を無数の魚たちが横切ってゆく。
ひらひら、きらきら、太陽を模したライトが水を通って揺らめいている。
トンネルはとても空いている。私が「あほ面で口を開いて」魚たちを見れるように、私の手を引きながら蒼はゆっくりと水の底を歩いていく。
頭上、11時の方角に巨大な影!
私は指さしてさも大発見のように言う。
「あっ、見て! 大きいね! ジンベイザメ! あんなに大きいのに目ちっさ! 頭でっかち!」
「知ってる? ジンベイザメって100年以上生きるって言われてるらしい」
「そうなの?」
「海には不老不死の無脊椎動物もいるから、そんなに驚くことじゃない」
「不老不死なら、数が増え過ぎちゃうんじゃない?」
「たいていは弱っちい被食者だから、捕食されたら不老不死も死ぬんだよ」
「死ぬときは食べられるときってことね。死因が明確でいいね。あ、ほら、あっちからカメ!」
蒼はずっとくすくすと笑っている。私はつないでいないほうの手で蒼の腕のあたりのシャツを引っ張る。
左斜め上、3時の方向にアカウミガメ。
そして――一瞬、頭上が何かにさえぎられて大きく翳る。私だけでなく蒼まで口を開けて頭上を見上げる。
まるで一枚の大きなラグマットのよう。
「「マンタ‼」」
私たちは同時につぶやく。
なんか……
なかなか楽しいかも!
トンネルの反対側からは暗い通路、両側に小さな海の生き物たちの水槽がはめ込まれている。
「ほら、見てみろ。こいつは下あごに長いヒゲがあるだろ。だからオジサンて呼ばれる。メスでもオジサンな。逆にオバサンていうのもいる。サメなんだけど、ふてぶてしい顔してるからオバサン」
私はおなかを押さえて声なく笑う。涙が出そう。
「ちなみに、ババアっていう魚もいるらしい」
「また私を騙そうとしてるでしょ」
「本当にいるんだって。何か賭ける?」
「どうせ、ほんとにいるのわかってて言ってるんでしょ」
蒼はあははと上を向いて笑う。
「俺のことがちょっとわかってきたみたいだな?」
そう、わかってきた、その腹黒さ。
L字の通路を抜けると、広いフロアのあちこちには天井まで届く円柱状の水槽があちこちに置かれていて、中にはそれぞれLEDでいろいろな色に照らされたクラゲがふわふわと浮遊している。クラゲの森みたい。昔はこんな展示はなかったと思う。
これぞ究極の癒し。
「生まれ変わるとしたら、クラゲがいいな。心臓もだけど、クラゲには脳がないから、何も考える必要がない、ただ浮いてるだけでいいなんて羨ましい」
「クラゲは被食者だから、食われたら終わりだ」
「はは。野生は厳しいから、こんなふうに、水族館でLEDに照らされて浮いていたい」
「でも半年から1年くらいしか生きられないよ」
「それでいいよ。どうせ脳がないから、寿命のことなんて考えないでしょ?」
うっとりとブルーに光るミズクラゲに見入っていると、また額を指ではじかれた。
「覇気のない奴」
首に蒼の腕が掛けられる。引きずられるようにクラゲの森から移動させられる。
そして2階分が吹き抜けの、イルカの水槽へ。そこは今も昔も、私の一番好きなところ。
アクアマリンの水がたゆたう巨大な水槽の前には、等間隔でいくつかのベンチが置かれている。高校生の頃、嫌なことや悲しいことがあるとよくひとりでベンチに座り、ぼんやりとイルカを見て過ごしたものだった。
一番右端のベンチ。そこがお気に入りだった。
偶然にも、蒼は私の手を引いてその右端のベンチに座った。
「私の、実生活では全く役に立たない特技を見せてあげるね」
私は蒼に微笑んだ。
ベンチから少し身を乗り出して、水槽の白い底近くから水槽の上部を眺める。水の揺らめきをじっと見つめ、目を閉じる。
「来た」
蒼がつぶやく。目を開けると、目の前に白イルカが立ち泳ぎのまま私を見つめている。
偶然か、そうでないか。私はイルカに気持ちを伝えることができる(と思っている)。
私は声に出さずにイルカに挨拶する。
イルカはくるりと立ち泳ぎのまま体を一回転して上方に泳いでいく。
そして次に寄ってきたのは、右のムナビレの先っぽが、少しだけ欠けたバンドウイルカ。
私は驚いて息をのむ。そして蒼を振り返る。
「この子! 昔からいるの! 高校生の頃、いつも挨拶してくれた子!」
「そうか」
蒼は柔らかく笑んだ。