LOVE, HATE + LUST
9-2
動揺が出ないように、平静を装ってワインをひと口。
頭の中を様々な疑問が渦巻いている。
私は一体、あなたの何?
答えを聞くのも怖い気がするし、訊いてみる勇気もない。
こんな状況に直面したことのない私には、何が正解なのか全くわからない。
ただ一つだけはっきりとわかることは……
何かを聞いて何かが壊れて、この曖昧模糊な関係を終わらせてしまいたくは……ない、ということ。
甘くて、切なくて、胸がぎゅうぎゅうに締め付けられて息もできないくらい苦しいけど。
蒼と一緒にいるのは、ほかのことがどうでもよくなってしまうくらい満たされた気持ちになるから。
命令その2。
『もう、逃げるなよ』
「もう」って……どの時点から、いつまでのこと?
夕飯のあと、マンション1階のコンビニに「お泊りセット」を買いに行った。ついでにミニサイズのBBクリームも。
部屋に戻ると、ソファに足を投げ出していた蒼は、ちょうど誰かとの通話が終わったところみたいだった。
「……わかったよ。じゃあ、明日な」
戻ってきた私を見て、彼は眉根を寄せる。
「あんたまさか、下着穿かないでコンビニに行ってきたのか?」
私は悲鳴を飲み込む。挑発に乗ってはいけない。あえて声のトーンを落とす。
「……ちゃんと穿いてます」
「今、暉から電話だったんだけど」
「えっ?!」
私はまた悲鳴を飲み込む。蒼はにやりと笑む。
「いや、うそ。オヤジから。明日昼間、事務所に挨拶に来いって」
私は安堵の息をつく。蒼は私をじっと見て言う。
「あいつには……バレたらいけないわけ?」
「そんなことはないけど……」
(暉は、どんな反応をするだろう?)
「たぶん、あいつは大した反応はしないと思う」
「……」
いや、でも。
なんて伝えるの? 私たちのこの「関係」を?
ロータイプのソファのコーナーに座ると、蒼は私の膝に頭を乗せた。飼ったことはないけど、猫みたい。
彼は高校や大学の時の暉と一緒にした数々の悪事の一部を話してくれた。十代の男の子たちは、突拍子もなくて危なっかしいことをあちこちでやらかすようだ。そしてそのたびに、想像もできないような方法で切り抜ける。私は蒼の髪を猫を撫でるように撫でて、笑いながら話を聞いていた。
そうやっていると、ずっと昔から私も一緒にいたような気になってくる。もしも高校の頃に暉から蒼を友達だと直接紹介されていたら、私はひそかに彼に一目ぼれして片思いでもしていたかもしれない。
振り向いてもらえなくても、暉のところに遊びに来たのをちょっとでも見かけて、幸せな気分に浸っていたかも。
ひとことでも話せたら、その日一日、すごく幸せな気分になっていたりして。
膝の上で髪を撫でられてご満悦の蒼の上に屈んで、そっと触れるだけのキスを落としてみる。目を閉じていた蒼が少し驚いて目を開ける。そして私を見上げて口角を吊り上げる。
「なに? 誘ってるの?」
「そういうわけじゃないけど、なんか猫みたいでかわいいなって思って」
「猫ならそれで済んだな。でも今、ここ」
蒼は自分の頬から耳のあたりに人差し指で触れる。私は首をかしげる。
「うん?」
「ここに、胸が当たった」
「さ、誘ってはないから!」
蒼はくすりと笑う。
「あんたほんとに、からかいがいがある……痛っー」
耳を引っ張ると蒼は顔をしかめる。
「あら、指も当たっちゃったみたい、ていうか、指で挟んじゃったみたいね」
私もくすっと笑う。
蒼は突然起き上がる。私の引っ張ったほうの耳が赤くなっている。
「朔」
「うん?」
「さっき寝室で、月を見たか?」
「月? なんの月?」
「月は月だ。そうか、見る暇がなかったか。もう寝よう。月見しながら」
何のことかさっぱりわからなかったけれど、寝室に引っ張って行かれて謎が解けた。
蒼が入り口近くの木製のキャビネットの上にあった小さなリモコンをピッと押す。ブラインドの隙間から月明かりが差し込む暗い部屋の中、ベッドボードの少し上、壁に取り付けられた棚の上にまぁるい月が光を放ちだした。
「月!」
「月だろ?」
「月だね……」
それは磁石で台座から浮いている、3Dプリントの球体のリアルなムーンランプ。
浮かんでいるから、本当に月みたいに見える。
私は蒼にTシャツを借りて、パジャマ代わりにする。ベッドボードに立てかけて重なり合いながら置かれているいろいろなマクラたちの中から、低めの羽枕を選ぶ。
「どうしてこんなにたくさんのマクラがあるの?」
「この世のどんなマクラでも安眠できないんだ。だから疲れ具合や気分で、使い分ける」
なるほど。
またひとつ、新事実?
ランプの月を見上げながら、マクラに頭を預けてうとうととまどろむ。
「水族館、楽しかった。久しぶりにあの、ヒレが欠けた子にも会えたし……クラゲにも癒されたし。そういえばクラゲって、漢字で書くと海の月とか水の月だよね」
肘枕で寝転んで、背後から私の髪を撫でていた蒼がふ、と微かに笑みを漏らす。
「生まれ変わってもやっぱり月になりたいんだな」
「あ、そうだね。水の中の月」
私もくすくすと笑って、ムーンランプを指さす。
「あれでもいいな」
「なに?」
「月には、ウサギがいるじゃない? 月兎。あれになるのもいいな」
「あれは生き物じゃないけど」
「不思議を不思議じゃないって言いきったり、月のウサギを生き物じゃないって言ったり……蒼は現実主義すぎる。イルカの水槽は蒼《そう》色で、あんなにも素敵だったのに」
「月の模様なんか見る人の主観で変わるんだ。ウサギに見えたりカニに見えたり、ヒトの横顔に見えたりな」
蒼が私の首に噛みつく。
「うそ……」
私の髪を撫でていた手は、いつの間にかTシャツの中に侵入してウエストを滑り、右の胸に到達する。
「ん、寝てていいよ」
そんなわけにはいかない。
「さっき、もう寝ようって言ったよね?」
「だから『寝る』を睡眠の意味にとらえたなら寝てていいって」
腹黒。
右の耳に、低い声がささやかれる。
「半年待ったんだから、ちょっと大目に見て」
そんなことを言われると、呼吸の仕方を忘れそうになる。
「やめて、もう無理、体力が尽きた」と言えばきっとやめてくれる。でも、やめてほしくない。
私は右手を伸ばし、上半身を少しねじって肩越しに蒼の頬に触れる。
先に好きになったほうが立場が弱いって、誰かが言っていた。それが今、やっと理解できた。
切れ長の目をじっと見つめると、まっすぐに見つめ返される。
欲されるということ。
それに、喜びを感じるということ。
私がいままで知らなかった、私の「女」の本能。
この男が欲しいの。
ほんの一瞬の瞬きの隙を狙って、キスが下りてくる。
目を閉じると脳裏に月のランプの残像がぽっかりとまるく浮かぶ。
いろいろともやっとすることは多いのに、もう心は完全に降伏している。
完膚なきまでに敗北を喫している。
私はもう自分ではどうすることもできないくらい、蒼が好き。