LOVE, HATE + LUST
9-3
「うそでしょう……?」
ダイニングテーブルを見て、私は呆然としながらつぶやいた。
嬉しい誤算。
木曜日の朝、7時25分。
朝ご飯が、私を待っていた。
スクランブルエッグ、ハムとチーズのパニーニのホットサンド。半分にカットしたミニトマトと、同じくらいの大きさにダイスカットしたアボカドをオリーブオイルで和えたサラダ。
「さすがに、あんたみたいに和食はハードルが高くて無理。適当ヤキソバの何百倍かはマシだと思わないか?」
「マシ」ってレベルじゃないよね?
蒼が起きたことに気づかないくらい疲労困憊で熟睡してたから、どれくらい前から作ったのかわからないけど。
私が暉に怒って翔ちゃんちに行ったときに蒼が作った「適当ヤキソバ」、私が食べたかったって思っていたことに気づいたのかな?
ふたりで、朝食。
暉がいないし、ここは蒼の家。
向かい合って座る。
「昨日、スーパーでじゃんけんした時、勝ったのに作ってくれたの……?」
「ああ、あれか。あれは確実に勝つってわかっててじゃんけんしようって言ったから、あんまり深い意味はない」
「え?」
「考える余裕を与えないでいきなり『最初はグー』で挑めば、あんたは100%グーを出すって暉が前に言ってたから」
「ええ?! ひどい! 負けたら3つ、言うこと聞けって……それ、ズルいよ!」
「ズルじゃない。相手の弱みを利用して勝つのは一種の戦略だからな」
「……!」
職業柄?!
腹黒!
「そんなに怒るなよ」
蒼は不敵な笑みを浮かべ、じっと私を見つめた。
「俺が誰かに朝メシを作るのはこれが初だから、光栄に思え」
不遜なドヤ顔。
なんで上から目線?
スルーしようかとも思ったけど、「初」って……
ちょっと、くすぐったい。
私はきっと、相当まぬけな顔をしている、はず。
「……」
「……な、なんだよ。冷めるから早く食えよ?」
「い、ただきます」
ちら。
パニーニにかじりつきながら蒼を見る。
あっ!
耳が、赤い。
なんか、かわいいかも。
「なに?」
「ん。おいしいよ」
「……」
(耳が、さらに赤くなってる!)
「蒼」
「なんだって」
「私も」
私は口元に笑みを浮かべる。
「私も、おばあちゃんとか妙子さんとか……家族以外のひとに作ってもらったの、初めて」
蒼は何でもないかのようにふうん、とうなずいただけ。でも口の端が上がっている。
ハムとチーズの入ったパニーニに、スクランブルエッグやトマトとアボカドのサラダを乗せて食べると絶妙。
少し照れた蒼の顔を見ながらの朝食は、至福の時間。
一緒に帰るはずだったけど、蒼は仕事の挨拶に行くことになったので、私だけ先に帰ることにする。
「今日は挨拶だけだから、昼過ぎには行くよ」
ドアのところでいいのに、蒼は地下の駐車場まで一緒に降りてきた。
「うん。たぶん妙子さんと海里君と、離れにいると思う」
「わかった。ちょうど渋滞だから、気をつけろよ?」
「そんな遠くないし、大丈夫だよ。ちょっ、やだ!」
ドアを開けて乗り込もうとすると、頭をぐしゃぐしゃに撫でられる。
防御しようと翳した手を捕まえられて、ぎゅっと抱きしめられる。呆然として脱力していると、大きな手が背中をぽんぽんと軽く叩く。
「またあとでな」
「あ」
有無を言わさず運転席に押し込められてドアを閉められる。蒼はちょっと屈んで私を覗き込み、うそくさい笑顔で手をバイバイと振った。私はため息をつき、エンジンをスタートさせる。
……振り回されてばかり。
ルームミラーを見ると、こちらを見たまま小さくなっていく蒼が見える。
振り回されて、翻弄されて、感動までさせられる。
蒼といると、呼吸の仕方や、心臓の動かし方までわからなくなる。
苦しいほどに満たされて、満たされると苦しくて、訳もわからず思い切り泣きたくなる。
こんな甘い苦しみ、今まで生きてきて初めて知った。
多幸感に、溺れてしまいそう。
妙子さんが来る前に掃除洗濯を終わらせて、カフェの屋根部屋で本の目録のチェックをする。中学の同級生で今は週に3回、市立図書館で仕事をしている友達に教えてもらった方法で整理する。本の簡単な修繕方法も教わったので、痛みのある本は自分で修繕する。
妙子さんが来たらメニューの最終チェックをして、午前中のうちに夕飯の買い物へ。
近所のスーパーなので、自転車を押していく。
夕飯は何にしよう。
蒼は何でもいいって言うし暉は何でも喜ぶから決定権は私にある。そうだ、チキン南蛮にしよう。
帰り道、公園の前を通り過ぎるとき、出入り口近くのベンチのほうから震えた女性の声がとぎれとぎれ聞こえてきた。
なんだろう?
泣きそうな、すごく、怯えた感じ。
そっと大きな桜の木の陰に近づいて聞き耳を立ててみる。
「——結構です! おねがいですから、放っておいてください!」
そして男性の声。
「遠慮しなくていいよぉ。一緒に探してやるって」
そっと覗いてみて、息をのむ。
制服姿の小柄な女の子が、20代くらいの派手な紫色のTシャツにミリタリーパンツの細い男に絡まれている。明らかに嫌がって体を背けているのに、男は触りそうなくらい近くで彼女を覗き込む。
ああ。
どうしよう。
たしか交番は300mくらい行った角を曲がったところだ。
私はスマホの緊急通話のための手順を確認して深呼吸する。
深く息を吸って深く吐いたところでまた息を吸い、入り口の垣根の後ろからふたりの前に飛び出して大声で男に向かって言う。
「ちょっと! うちの子になにするの?!」
虚を突かれて男は目を丸くする。私はすかさず手に持ったスマホを掲げる。
「今すぐ離れなさい! 通報しますよ! 交番はすぐそこだからねっ!」
すると男はすぐに走り去った。私はへなへなとその場にしゃがみ込む。襲い掛かってくるような人じゃなくてよかった……
「あ、あのっ! お、おねえさん!」
女子高生が駆け寄ってきて私の肩に手をかける。私はふふ、と笑う。
「よかった……すいませんけど、手を貸してくれます? 足が……がたがたで」