LOVE, HATE + LUST
10-2
生まれ育った時から住んでいる家の、幼少期を過ごした自分の部屋。
目を閉じていても手を伸ばすだけで、どこに何があるのかわかる。
その慣れ親しんだ空間に、自分以外の誰かが一緒にいる。
誰かに遠慮するような後ろめたい関係でもないけど、ちょっとの背徳感と、あとちょっとの違和感、そして自分でもよくわからない甘い苦しさにぎゅうぎゅうに締め付けられるような満たされた感じ。
起きているときは次に何を言い出して何を仕掛けてくるかと私をどきどき、はらはらさせるけど……
眠っている蒼は、とてもかわいい。
そっと抜け出して朝ご飯を作りに行く。
揚げナスの味噌汁、いりごまと塩昆布入りのだし巻きたまご、オクラの出汁浸しに鰆の塩焼き。
なんだろう。
日常の当たり前な毎日のようで、予測不能に翻弄されて落ち着かない感じ。
何か月も前から楽しみにしていた海外旅行の3日前みたいな、不安と期待とがごちゃ混ぜになった、そわそわと落ち着かない感じ。
「おはよう、朔」
起きてきた蒼は前髪が少し濡れている。ちょうど呼びに行こうとしていたところ、キッチンの入り口でぎゅううとハグされる。
「おはよう、蒼」
苦しい。物理的にも抽象的にも、胸が苦しい。
「昼過ぎには出て、明日のオープンにはちょっと来られると思う」
朝食後の洗い物をしながら蒼が言った。テーブルでほうじ茶をのんでいた私はうん、とうなずいた。
「午後は例のプロボノの先輩とちょっと会って、今夜は事務所の人たちが歓迎会を開いてくれるらしい」
「楽しんできて」
午前中は海里君とふたりで広い中庭を掃除してくれて、お昼に4人で妙子さんの賄い飯のロコモコ丼を食べると、蒼は昨日着てきたスーツと先週来た時に持ち込んでいたバックパックをもって、お兄さんから借りた車に乗って帰って行った。
たった1週間、それなのになんだか寂しい。
3時ごろに暉が帰ってきて、4時ごろに父がひょっこりやってきた。
「ごめんね、みんな。明日から1週間、ゼミの子供たちと地方に行かないといけなくなったんだ。明日の開店には来られないけど、今日はちょっと顔を出したよ」
相変わらずのマイペースぶり。そういうところは暉がしっかり受け継いでいる。
夕飯は妙子さんが腕を振るい、山野井家の親子3人と妙子さん、海里君でプレオープニング晩餐会となった。
母屋の居間にて、晩餐会は開かれた。
暉が酒屋からビールを、海里君が近所の専門店からフライドチキンを調達してくる。
「時任君、どう? やっていけそうかい?」
父の質問に海里君は元気いっぱいに首を縦に振る。
「はい‼ みなさん親切にしてくださいます。明日から頑張ります!」
柴犬のように愛らしい海里君に、みんなはうんうんと頷く。
「妙ちゃん、この子たちをよろしくお願いするね」
父がおっとりと微笑むと、妙子さんは右手でガッツポーズをする。
「任せてよ、玄ちゃん。私も感謝してるわ。ほんとにありがとね!」
ほのぼの。
父と暉と海里君が、ソファで囲碁を打ち始める。私は妙子さんと洗いものを終えてキッチンのダイニングテーブルでほうじ茶を啜っている。
「妙子さん、一度聞いてみたかったんだけど……」
私の質問に妙子さんは顔を向けて首をかしげる。
「うん? なぁに? 朔ちゃん」
「父さんとは幼稚園の頃からの幼馴染だよね。その、今まで一度でも、父さんのこと、男として意識したことはあった?」
妙子さんはあはは、と笑う。
「それ、この40年くらいのあいだ、いろんな人に訊かれるわ。まあ、うまく伝わるかどうかわからないけど、私は最初から玄ちゃんは男の子だと思っていたわよ。玄ちゃんも、私が女の子だとちゃんと認識していたし。つねにお互いを大切に思っていたし、ずっと変わらずに、親友だと思ってるわ」
「親友……」
「そう。まあ、別の親から生まれたきょうだいのようなものかしら。ほら、朔ちゃんだって、暉ちゃんが男前でも何とも思わないでしょ? ハグされてもチューされても、どきどきしないでしょ? それと同じようなものよ。私と玄ちゃんは、そういうのしたことないけどね。替えがきかない、別れが来ない存在。それで、通じる?」
「はぁ、なんとなくは」
「男と女でも、友情は成立するのよ。そりゃまあ、幼馴染同士であるとき突然意識しあって恋愛に至ることも多いだろうけど、100%ではないでしょ?」
「どうして旦那さんとは結婚して、離婚したの?」
「そりゃあ、出会った頃は優しかったし、私も惚れてたのよ。デートしたり、花やプレゼントをもらったり。顔も私好みだったからね。でも結婚したら、変わっちゃったの」
「ええ? どんなふうに?」
「うーん。好きだとか、かわいいとか言ってくれなくなって、その日あったことも話してくれなくなって、家に帰ってもメシ、フロしか言わなくなったの。私には全くの無関心、真那が生まれてからも、おしめ替えたことも夜泣きに起きてあやしてくれたことも、学校行事に来てくれたことも、一度もなかったわ」
「浮気してたの?」
「さぁ。真那が小学校を卒業するころには、私も夫に何の関心もなくなっちゃったから、よくわからないわ。それからは真那の習いものや私のカルチャー教室の費用や旅行に、夫が働いて稼いだお金を惜しみなく使ってあげたわ。それでも、なにも言ってこなかったの。ああ、もうだめだ、彼の人生に私たちは必要ないし、私たちの人生にも彼は必要ないって、真那も私も感じたのよ。だから、真那の結婚を機に離婚を申し出たら、あっさりと承諾されたわ」
(ほら……やっぱり、結婚なんて、いいことないよね)
私が無言で考え込んだのを見て、妙子さんはふっと笑う。
「やだ、深刻な顔しちゃって。未婚の子を失望させたいわけじゃないのよ? 真那にも、結婚する時に言ったの。好きだ、愛してる、そいう言うのって、ほんの数年よ。一緒にいれば元は他人だから、気に食わない面も見えてくるし、面倒にもなるわ。でも相手のことが好きで大切なら、そういう思いが消えないようにお互いが努力したり、消えても残る別の何かを育てていけばいいのよ。尊敬とか、信頼とか、思いやりとか」
「奥が深いね」
「あはは。なんでも努力や工夫が、必要だってことよ」
妙子さんは私の手を撫でた。ふわふわして、温かい手。
「男と女にならなくても、今はどっちもバツイチでほかの相手もいないんだから、運命共同体として一緒にいるのもアリなんじゃない?」
「なるほどそれもいいかもしれないわね。あと20年くらいしたら、シェアハウスでも作って生き残りの幼馴染たちを集めて、みんなで共生もいいかもね」
「私と暉もそこに加えてもらうかもね」
「あなたたちは、まだまだ時間があるわ。人生、何があるかわからないからね」
私は妙子さんの肩に頭を乗せた。
妙子さんは私の腕を優しくさすった。