LOVE, HATE + LUST
11-3
ブルーの長い爪が私の髪をつかもうと目の前に伸びてくる。私はぎゅっと目をつぶる。
次の瞬間、彼女はビターン! と派手な打擲音とともに床に倒れた。「げぶっ!」という、動物じみた声が聞こえた。
「……」
固くつぶっていた目を開けると、目の前に顔面を床に打ち付けた若い女性が、口から泡を吹き白目をむいて倒れていた。
ズルッ! と、そのグロテスクな形相が30㎝ほど後ろにずり下がる。あまりの恐ろしさに私はひっと悲鳴を飲み込む。
「朔っ! 間に合っ……た!」
肩で息をした蒼が、狭い階段口から彼女の足首をつかんで引っ張り、その反動で一気にデスクまで近づいてきた。
差し出された手を必死でつかみ、そのまま腕にしがみつく。
あまりの恐怖で声が出ないけれど、私は必死に蒼の名前をぱくぱくと呼び続けた。
「大丈夫だ、もう、大丈夫だから、な?」
大きな手が優しく頭を撫で背を撫でる。
ばたばたと複数の足音が階段を上がってきて声がする。
「容疑者、確保!」
「気を失っているようですね」
「大丈夫ですか?」
額に汗を浮かべ呼吸を整えながら、蒼は警察官たちの対応をする。私は情けないことに、蒼にしがみついてがたがたと震えているだけ。
「けがはないようです。ショックで声が出ないみたいですが。飛び掛かる寸前に、私が侵入者の脚をつかみ、床に引き倒しました」
息を切らしながらも蒼は淡々と状況を説明した。
そして私は、目の前が真っ暗になって……蒼にしがみついたまま意識を手放した。
妙子さんも海里君も2時半少し前にはカフェに来て、おもてに止められた2台のパトカーと近所のやじうま、1階に飛び散ったドアのガラスを見て、腰を抜かすほど驚いたらしい。
らしい、というのは私は気を失っていたので、あとから本人たちからそう聞いたのだ。救急車が来て私は病院へ運ばれた。精神的なショックのため、神経を落ち着かせる薬を注射されて数時間眠っていたようだった。車でついてきていた蒼に引き取られ、夕方5時ごろ家に戻った。
さらさらと、小雨が降っている。
ガラスは海里君が片付けてくれたらしい。
壊れたドアは妙子さんがすぐに業者を呼んで取り換えてくれたという。今度はガラスの部分にアイアンレースの枠がはめられていて、ガラスを割ってもそこから手を入れることができなデザインだ。3時のネット予約のお客は事情を説明して2階に行ってもらい、海里君が閉店まで面倒を見てくれた。
事情聴取もあるようなので、とりあえず明日は臨時休業にすることに。父には心配をかけたくないので後日私から話すことで妙子さんには納得してもらった。そして暉には、帰国するまで黙っておいてくれるように蒼にお願いした。
心配してくれた妙子さんがご飯を作ってくれたけど、一口も喉を通らなかった。
私はカモかアヒルのヒナのように、蒼のあとをぴたりとついて回った。暉の部屋に着替えに行くときも、トイレに行くときも、お風呂の時も、自分は食べないのに蒼が食事をとるときも。それを見て妙子さんは苦笑して、「朔ちゃんをよろしくお願いします」と蒼に言って、7時ごろ帰って行った。
薬の効果もまだ続いていて、感情の起伏もなくぼんやりしていた。生まれて初めて、命の危機を感じるほどの恐怖を体験した。あの恐怖の時間は長くても15分ほどだったようだけど、私には数時間に感じた。
雨の夜。
雨だけど、私の部屋にはぽっかりとまるい月が出ている。
変わらず満月のままのムーンランプ。
ベッドボードにクッションを置いて背を持たせかけながら、蒼はラップトップで業務報告書を作成している。今日は仕事を途中で放り出して、事務所を飛び出してきてしまったらしい。私からの着信を受けている間、カフェの名刺を見せて状況をざっと説明し、そこに警察を呼ぶように事務員に伝えてきたという。事情が事情なだけに、所長(であるお父さん)からの叱責はなく、むしろよくやったと褒められたらしい。
私は蒼のウエストにしがみつき、おなかに頭を乗せている。鼓動と呼吸で動くおなかと体温がとても心地いい。時々蒼は、キーボードを打つ手を止めて私の頭を撫でる。
「明日は在宅勤務ってことで、所長の許可は取った。明日の午前中に警察で実況見分があるから、一緒に行くよ。これまでの暉のSNSに送られてきたストーキングメッセージとカフェに送られてきたメールすべて、今日の俺と朔の通話録音を提出するよ」
こくこくと小さくうなずく。
「あの女は、例の合コンにいたモデルもどきだ。今回はカフェの店舗だけど住居と同じ敷地内だから住居侵入罪が適用されるし、緊急逮捕もされた。ストーカー規制法にも抵触する。接近禁止命令を申し出るし、器物損壊では告訴するから、トータルすれば牽連《けんれん》で結構罪状は重くなるだろう」
こくこく、とうなずく。内容はあまり頭に入ってこないけど。
「珍しくない」と蒼は言っていたけど、今回、暉が何もされなくてよかった。もしかして、私が知らないだけで今までも怖い目に遭ったことがあるのかな?
そのたびに私には何も言ってくれないで、蒼に相談していたのかな?
あんなふうに、狂気にぎらぎら光った目で迫ってこられたら、誰だって怖いよね?
彼女は、「好き」という思いを、どこかで間違ってしまったのだろう。
一方的に好意を募らせて、妄想の中で思いを膨らませて、現実で拒絶されて納得がいかなくて……あんなことを、しでかしたのかな。
でもだからと言って、ヒトとして、越えてはいけない境界線はあるはずだ。
「すごく、怖かったよ」
ぽつりとつぶやく。
「ん。何もされなくてよかった」
髪を撫でられる。
私は小さく吐息して、そっと目を閉じる。
蒼はPCの電源を切ってスクリーンを閉じると、それをベッドのわきに立てかけて私を抱きしめた。
「おやすみ、朔」
髪を梳く長い指と背中を支えるてのひらの感触にうっとりする。
そのあとも蒼が何かを言ったような気がしたけれど、まったく聞き取れないうちにすとん、と眠りに落ちてしまった。