LOVE, HATE + LUST
第13話
13-1
5時7分前に、カフェの入り口側の前の通りにクアトロポルテがやってくる。
私が門の前に立っているのを見て、専務は申し訳なさそうに言った。
「お待たせしてしまいましたか?」
いいえ、と私は微笑んで首を横に振る。
ネイビーのポロシャツに黒のテーパードパンツ、白のスニーカー。本当に動きやすそうな恰好は、会社で着替えたのだろうか。薄いブルーのコットンシャツにカーキのクロップドパンツ、黒のスニーカーでほぼドレスコードは合っていたみたいでほっとする。
降りてドアを開けてくれようとするのは長年の付き合いで分かるので、先に大丈夫です、と言って自分で開けて助手席に滑り込む。
「今日は早めに退勤なさったんですか?」
「そうですね、3時に上がりました。たまには、いいでしょう」
「お疲れ様です。今からどちらに向かうんでしょうか」
「行けばわかりますよ」
1時間少しで車は大きな牧場の駐車場に入った。
「ここはうちの社が買収したことはご存じですよね」
「もちろんです! 社長の第3秘書をしていた時に、お手伝いに出向したことがありました。副社長が主導されていたんですよね」
懐かしい、入社間もない頃にほんの3日ほど、売店に出向したことがあった。牧場の牛からとれる牛乳を使ったアイスクリームやさまざまなお土産品を売ったことは、楽しい記憶として今でも時々思い出すことがある。
「これ」
車を降りて売店のほうに歩いているとき、専務が私のてのひらに何か小さなものを載せた。
「あっ、これ!」
懐かしさに思わず声が大きくなってしまった。それは牧場の羊の毛からとれたフェルトを細い針でさくさく刺して作った、フェルトの羊のマスコットだった。ちょうど一匹分のマスコットが完成するセットにして、売店で売り出したもののひとつ。
しかもその羊は、休み時間や勤務外時間を利用して、私がサンプルとして作った羊だった。その不格好さで自分の作品だとひとめでわかる。お客様への作り方教室のアシスタントをしたときに作ったもの、のはず。
「どうしてそれを専務がお持ちなんです?」
「あなたが、くれたから」
「えっ?」
「留学していた時に一時帰国して、兄が手掛けた牧場の見学に来ていたんです。たまたま作り方教室に参加して、作った羊が不器用すぎて動物に見えず、指もたくさん針で刺してしまって落ち込んで。そしたらあなたが、代わりにこれをくれたんです」
「え? あ。なんか、そんなこともあったような。ええ? そのお客様が、専務だったんですか⁈」
確か、若い男性で、背が高かったことぐらいしか思い出せない。私はあまりひとの顔を見ない、覚えない癖があったから……
お土産店の脇に出ている木製のベンチテーブルの間を抜けながら、専務は柔らかく笑んだ。
「家に帰って兄にそのことを話したら、それはうちの新入社員で父の第3秘書をしてる子だと言われました。だから本社勤務が決まった時に、あなたを専属秘書にお願いしたんです」
「はーぁ。つまり、初めてお会いしたのは、ここでしたか……」
専務のあとについてお土産店の裏手に回ると、レストランがある。なだらかな丘に添って、屋外テーブル席が20席ほどあり、すでにその半分ほどはカップルや親子連れで埋まっている。そこはバーベキューエリアで、肉を焼くいいにおいが漂って、ひとびとの楽しそうな声や子供たちのはしゃぎ声が聞こえてくる。
「富小路です」と専務がスタッフに声をかけると、「予約席」の札が置かれた席へ案内される。飲み物はいつも通り、冷たいウーロン茶ふたつ。
十分に熾った炭がグリルに投入され、野菜や肉が運ばれてくる。手を出そうとして、これは男の仕事ですと専務に止められる。
肉や野菜が焼けるまで、ちょっと思い出してみるけれど。
私は首をかしげる。
「でも私、特に何か感動的なことなんかはした覚えがないんですけど」
「うーん、たしかに。でも、一生懸命に働いていました。迷子を泣き止ませて家族を探してあげたり、アイスクリームを落として泣いた子に新しいのをあげたり。お土産のお菓子類の在庫を常にチェックして、切らさないようにしたり。当たり前のことと言えば当たり前だけど、一生懸命やっていたんです」
まさか、自分のしていたことを見ていた人がいたなんて。しかもそれが入社前の専務で、それで私を専務付きの秘書にしたなんて。
「あ、もう焼けたので、どんどん召し上がってください」
ぽいぽいっと、カルビやロース、焼きトウモロコシや玉ねぎがトングでお皿に入れられていく。いただきます、と言ってから箸をつける。おいしい。
「あなたが私付きの秘書になって、すごく浮かれたんです。いつも一緒にいられる半面気まずくなりたくはないからと慎重だったのに、のろのろしているうちに圷さんに先を越されてしまいました」
「え?」
「ちょっと前に振られた」って言ってたのは……わ、私に⁈
「ほら、そういう困った顔をされるのが、怖かったんです。この2年半、仕事の関係とはいえ、あなたは私の服のサイズや食べ物の好み、癖やしぐさひとつで体調の良し悪しや……私を一番よく知る存在だった。そんな存在を失うかと思うと、正直、気が気でなくて。でも……」
専務はバーベキューの煙の向こうで寂しそうに笑んだ。
「先日、カフェの駐車場であなたがあの男性の名前を読んだ時、またタイミングを逃したとわかったんです」
「名前を呼んだ時、ですか?」
確かに、庭を横切ってきた蒼を見て、名前を呼んだ。でも、時別なことは、何もしなかったはず。
「彼のことが、すごく好きでしょう? あんな顔、圷さんにもしなかったのに」
「えっ……」
「少なくとも、圷さんと別れてから出会われたのでしょう。一日の3分の1、あるいは一日のほとんど、時には地方や海外でずっと一緒にいた私の2年半は、彼のたった数か月の足元にも及ばないんだと、思い知ったんです」
ふう、と息をついて、私はもうひとつのトングで網の上の肉や野菜を専務のお皿に載せながら言った。
「私、役に立つ部下になろうと必死で頑張りました。専務がいつも感謝してほめてくださるから、自分の仕事に誇りを持っていました。私が専務をお支えできたのは、私が専務付きの秘書だったからです。それと……私の性格をよくご存じでしょう?」
――それ以上は図々しすぎてとても言葉にすることはできないけど。
もしも専務がもっと早い時期に……駿也よりも早く私に好意を伝えてくれていたら。
断る理由は、なかったかもしれない。
でも、秘書でいることと私的なパートナーでいることは全く違う。気が弱くて内向的な私を、専務はそれでもいいと言ってくれるだろう。
だからと言って、本当にそれでいいわけではないのだ。専務のような人のパートナーは、社交的で独自の人脈も広くて、しっかりと専務を支えていけるような人でないといけないのだ。
それに……いくら好意を持ってくれても、私が同じくらいの好意を返せるかという保証もないし、そんな私を選んで専務が何かを諦めるようなことになれば、私も後ろめたいまま生きていくことになるだろう。
私が自分の実力を発揮してお役に立てるのは、せいぜい秘書としての役職どまりだ。
私では、専務を幸せにはできない。
✦・✦ What’s your choice? ✦・✦
ハイスペ王子からの好意には
A いろいろ考えて断る
B とりあえずOKしてみる
C そんなのOKに決まってる!
D 冗談だと受け流す
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