LOVE, HATE + LUST
第14話

14-1





金曜日の夜の8時過ぎに仕事から直接うちに来た蒼は、疲れ果てていた。

「なんかやけに静かじゃないか?」

玄関には私の靴しかない。居間は暗いしキッチンからも人の気配がしないので、蒼はネクタイを緩めながら首をかしげた。

私はくすっと笑う。

「リュン君が温泉に行きたいって言ったら父さんが張り切っちゃって、男三代で箱根に行っちゃった。暉から連絡行ってない?」

「ああ、忙しすぎて電話見てなかった。うん……確かに、帰りは日曜か。朔をよろしく、と……なんだよ、つい1時間くらい前に来てる」

ジャケットを脱ぎながら内ポケットからスマホを取り出してメッセージを確認した蒼は、はっと顔を上げた。

「——ということは」

「ということは、なに? それよりご飯は食べた? なにか用意しようか?」

「いや、そんなことより、戸締りはちゃんとしたのか?」

「うん、そこ、閉めてくれれば完璧だけど?」

私は蒼の背後、玄関の戸を指さした。蒼は振り返り、玄関の鍵を閉める。

「これで完璧?」

「そうね。完璧。それで、夕飯は食べたの?」

「いや、そんなことよりも」

蒼はジャケットとトートバッグを持ち、私の手を引っ張ってぐいぐいと階段を上がる。私の部屋の入り口から、ジャケットとネクタイとバッグを無造作に投げ入れる。

「風呂!」

「うん?」

「風呂に入ろう」

「私はもうさっき入ったから、どうぞ? え? ちょっとっ……?」




午後9時35分。

私の部屋には広縁がある。広縁とは雨戸や窓の内側の広い縁側のことで、窓を閉めたまま洗濯物や布団が干せて便利なスペースだ。雨戸は立てずにそこにラグマットを敷いて、ビーズクッションの上にくたりともたれる。

額に載せてもらった冷たいタオルが心地いい。


今夜は満月。梅雨の合間の銀色の月が青い夜空に浮かんでいる。

ステンレスのワインクーラーに氷水とオーストラリアのリースリングを1本。軽い足取りで階段を上がってきた蒼は、夕飯に作っておいた肉じゃがも持ってきた。

「朔、ほら、飲んで」

冷たい水を渡されて、こくりと喉に流し込む。生き返る。ふう、と一息つく。

蒼は私の隣に座ってワインをグラスに注ぐ。

部屋の中には、ムーンランプの明かりだけ。差し込む月明かりは、青白く広縁を照らしている。

「落ち着いた?」

「誰のせいよ?」

「俺は十分、長風呂で癒されたよ」

「……」

憎らしい。たしかに、来た時よりも元気になっている。

でも……

私はビーズクッションにもたれながらじっと蒼を見上げる。

「なに?」

片眉を吊り上げて蒼が私の顔を覗き込む。鼻先が触れそうなくらいまで。

こまったな。そんな至近距離で見つめられると、ドキドキする。

水曜の夜、リュン君のことでごたごたして以来、蒼も忙しすぎてうちには来なかった。だから「私たちのこと」は、あれ以来止まってしまっていた。


「二日ぶり、だね」

私が小声で言うと、蒼はくすりと笑って私の瞼にキスした。

「ん。俺のことは気にならないくらい、甥っ子と楽しく過ごしてたか?」

はは、と私は苦笑する。否定できない。痛いところを突かれる。

「甥っ子だけじゃないよ。もう一つ、びっくりしたことがあったの」

私はそのもう一つのびっくりについて、蒼に話して聞かせた。



――昨日。

今週の水曜日までその存在を知らなかった初孫と初対面を終えた父は、その場に見慣れない人物がもう一人いたことに気づいた。それは私の隣にいた、るなちゃんだ。

「おや? きみは……」

「お客さんよ。かわいいでしょ?」

私が答えると、父はるなちゃんに質問した。

「お名前はなんと?」

「るなです」

るなちゃんが答えた。

「うーん。姓はなんでしょうか」

「はい、きうち、です」

父は「あぁ~」と大きくうなずいた。

「やっぱりね。子供の頃の朔によく似ていると思ったよ。どうりで」

「あ、それさ、初めて会った時に俺も思ったよ。でもなんで、どうりでって?」

暉が首をかしげる。

「そうだろう、そうだろう。似てるはずだ。彼女はきみたちの父親違いの妹だから」

「「えええええっ⁈」」

私と暉は同時に叫んだ。妙子さんも目を丸くする。るなちゃんはバツが悪そうにうつむく。リュン君は訳が分からずにきょとんとする。

「彼女は、さゆりさんが再婚してできた娘さんだよ」

父はにこにこしていた。



さゆりさんとは、私と暉の生みの母だ。4歳の時以来、一度も会ったことはない。

父は何年かに一度くらいは会っていたらしい。ほんの半年前——私が秘書の仕事を辞めるくらいの頃——に、偶然に会ったらしい。その時に私や暉の近況を話し……彼女の娘の思春期に手を焼いている話を聞いたという。

るなちゃんは母親から、父親違いの双子の兄と姉がいることを聞いて知っていた。進路や習いもののことで母親と意見が衝突するようになると、自分の異父兄姉に会ってみたいと思うようになった。そして暉のSNSを見つけてフォローするうちに、ブックカフェの開店を知って、ちょっと覗きに行こうと思ったらしい。



「うそみたいでしょ? 今まですっと知らなかったのに、たった2日で、甥っ子と妹ができたんだから」

「なるほど。だからか」

「なにが、だからか?」

「あ、いや、なんでもない。みんなが似てるって言ったのは、異父妹(いもうと)だったから、な」

「そう。私も似てるなと思ってた。考え方まで似てたから。母親の顔は思い出せないけど、るなちゃんを見るにきっと私も似てるんだと思う」

「会ってみたい?」

「正直に言えば、まったく。顔も覚えてないのに、別れた4歳の時に言われたことだけは今でも鮮明に覚えてるの。私のトラウマ」


『彼の妻として、子供たち(あなたたち)の母としてよりまず、私として、自分自身のためにやってみたいことがたくさんあるの。ごめんね。あなたたちのことが憎いとか嫌いとかではないのよ』


「4歳じゃ、その意味が分からなかったろう?」

「すべてわからなくても一字一句覚えていて……もっと大きくなってから意味が分かった。十代の頃は憎んだけど、自分が同じくらいの年になると、なんとなく理解できた。彼女は若すぎたんだなって。暉はどう思ってるか知らないけど……あ、るなちゃんのことは、妹として、大歓迎だけどね」

「朔」

蒼は私の髪を撫でていた。優しく、そっと、撫でていた。

「前に言ったよな? あの子の名前も、同じ『月』だって。やっぱり、偶然じゃなかったよな?」

私はビーズクッションの上をずるずるとずれて、蒼をハグした。私が誰かに甘えるなんて、私でもびっくりする。

「前にも言ったけど……ほんと、恐ろしい洞察力ね」

「『朔』は新月。『るな』はローマ神話の月の女神。朔のほうの意味が分かっていれば気づくよな」

「それであんまり驚いてないの?」

「うーん、ほかにも理由はあるけど、また今度教えるよ。ところで、ひとつ頼みがあるんだけど」

「うん?」




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