LOVE, HATE + LUST
15-4
「朔ちゃん、それはなぁに?」
私の手元をじっと見つめてリュン君が首をかしげる。
カフェの屋根部屋。ソファに座り、私は手の中の毛玉にちくちくと針を突き刺す。
「んー、これはね、羊の毛なの。この長い針で刺すと、硬くなっていくのね。好きな形に刺して、動物や鳥なんかを作るの」
専務と牧場に行ったときについでに買ってきた羊毛フェルトのマスコットキット。
つい夢中になりすぎて、新たな毛玉をたくさん買ってきて、いろいろな動物を作ることに最近は凝っている。
いま私が作っているのは小さな小さな薄灰茶色のテディベア。
羊毛にサクサクと針を刺しているとなんか心が落ち着くので、最近は時間が空くと刺している。
「ヌヌース!」
「そうだよ。クマだよ。できあがったら、リュン君にあげるね」
「ほんとう? うれしい!」
「朔さん、るなちゃんが来ました」
海里君が内線をかけてくる。
「ありがとう。いま行くね」
私はリュン君の手を取る。
「るなちゃんが来たよ。行こう」
「うん」
うちの父によってカミングアウトされたるなちゃんの正体。私と暉の、半分血のつながった妹。
あれからもるなちゃんは普通に放課後や週末の午前中にやってくる。リュン君ももうひとり叔母が増えて嬉しそう。まあ、7歳の甥と15歳の叔母って、兄弟みたいなものだけど。
るなちゃんは、母親には内緒でここに来る。母親に反抗的な年ごろの彼女にとっては、うちのカフェは聖域のようなものなのだろう。
「朔おねえさん! リュン君!」
妙子さんのキッチンカウンターから手を振る笑顔のるなちゃんを見て、私も笑顔になる。最近の彼女は明るい。そして彼女の隣には、背の高い瘦せた男の子が立っている。二人ともそれぞれの学校の制服姿。
「こんにちは。新條歩っていいます」
男の子は礼儀正しくお辞儀した。
「こんにちは、歩君ですね。るなちゃんから聞いてます。私は彼女の姉です。よろしくね」
姉、と自己紹介すると、るなちゃんの瞳に嬉しさが浮かぶ。
「今日はあそこで一緒に試験勉強します」
るなちゃんは外のテーブルを指さした。
「どうぞ、ごゆっくり」
私は彼女に微笑んだ。
「うわぁ、ついにるなちゃんに先を越されちゃったな!」
海里君がトレイを抱えてフロアから戻ってきて苦笑した。
「だったら海里君もヤマネコさんを諦めて、もっと振り向いてくれそうなハリネズミな子を見つければいいんじゃないの?」
カウンターの中から妙子さんが笑う。
「えーっ、そんな、無理です。あっ! あれ⁈」
海里君が大きな目を丸くして驚きの声を上げる。私とリュン君と妙子さんは、彼の視線の先をたどる。ドアを開けて入ってきたひとりの女性。細面、色白で真ん中わけの黒いロングストレートヘア。水色のブラウスに濃紺のジャケットとひざ丈フレアスカート。7㎝ヒールのローファーに黒のトートバッグ。
この前、海里君が見せてくれた写真の……
「ヤマネコさん?」
私のつぶやきに妙子さんは「あ~」とうなずく。彼女はきょろきょろと店内を見回す。私はリュン君をスツールに座らせ、海里君の手首をつかんで引っ張っていく。
「いらっしゃいませ」
静かな声で呼びかけると、彼女は私と海里君を見てにっこり微笑んだ。
「あ、時任君、そして初めまして。山根と申します。教授にはお世話になっております」
「初めまして。お噂はかねがね。山野井の娘の朔と申します」
「ああ! 朔さん! 私もお噂はかねがね! お会いできて光栄です」
低く、落ち着いた声。確か私よりひとつ年下のはずだけど、私より大人の女度が高い。背は私と同じくらいだけど、ヒールの分高く見える。それに髪! つややかでとてもきれい。
「先生。今日いらっしゃるなんて、ひとことも……」
海里君がおろおろする。ヤマネコ助教はにっこり微笑む。
「来週の講義の前に見直したい本を、教授がお持ちだと先ほど聞いたの。お嬢さんにタイトルをお伝えすれば、貸してくださるって」
彼女は白い封筒を私に差し出した。
開封すると筆ペンによる達筆のメッセージが和紙に書かれている。本のタイトルが書かれていて、その下に「彼女にその本を渡してください」とある。まぎれもなく父の筆跡である。
普通今時、電話でメッセージ送ればいいんじゃない? と思うけど。
まぁ……お父さんだしな。
はは。
とりあえず屋根部屋の貴重本の棚から見つけてくるまで、座ってお好きなお茶をお出ししておいてと海里君に頼み、私は屋根部屋に向かう。前に写真で見せてもらったよりも、柔らかい雰囲気の女性だ。海里君、突然の意中の人の出現でうろたえているけれど、すごく嬉しそう。
その本は中世の散逸文学の説話の写本で、結構簡単に見つかった。A4の茶封筒に入れて下に持っていく。
大テーブルの壁際の端っこの席に座ったヤマネコさんに、海里君がアイスティーを差し出している。海里君、彼女を見つめる目が熱っぽい。そして……
あら。
話を聞く限り、冷たくあしらわれてばかりで海里君の完全なる片思いなのかと思っていたけど、どうやらそうでもないみたい。
甲斐甲斐しく彼女の座る背後から、身を屈めてアイスティーとアップルパイを差し出して、何やら一生懸命に話しかけている海里君。5歳年下の彼にこくこくとうなずいて、ときおり笑みを浮かべる彼女。
落ち着いていて大人っぽいなと思ったけど、そんな表情をすると、逆にるなちゃんくらいの少女みたい。
彼女も、きっとまんざらでもないのだろう。
海里君、心配する必要なし。犬派とか猫派とかの話をしたときには首をかしげてしまったけど、蒼の言うとおり、「諦めなくてもよし」みたい。
海里君が離れると、私は彼女にそっと歩み寄り、茶封筒を差し出した。
「こちらです」
「ありがとうございます。お借りします」
「いつでも、海里君に渡していただければ結構です」
「いえ、あの、また……こちらに伺ってもよろしいですか? ここは教授の書庫だったそうですが、本好きにはたまらない空間ですね」
私はふふ、と笑ってうなずいた。
「はい、いつでもいらしてください」
「今日はもう用事もないので、ちょっとここで少し読ませていただきます」
「どうぞどうぞ、ごゆっくり」
キッチンカウンターには、トレイを抱きしめて耳を赤らめる恋する柴犬がいる。
「朔さん! 先生は今日はもう大学には戻らないそうです。僕が終わるまで読書して待っていてくれるって、言ってました!」
私と妙子さんは「おお!」と呟く。リュン君がふふ、と笑って肩をすくめる。
なんだ、なぁんだ。
今夜は僕が夕飯を作ってあげるんです。このあと、スーパーに寄って買い物して、一緒に帰ります!と言って海里君は浮足立つ。スキップは、しないでね。
そのうち海里君にも、羊毛フェルトで柴犬とヤマネコでも作ってあげよう。
るなちゃんは歩君に英文法を、歩君はるなちゃんに物理を教えている。
本当に、彼女の表情が明るくなった。私が高校生の頃にはなかった変化が、彼女には起こったみたい。
「あちこち、ほほえましいわね」
妙子さんが笑う。
そうだね、と答えて私も笑う。
なんだか、なんとなく、蒼に会いたいなと思いながら。