LOVE, HATE + LUST
第16話
16-1
その事件の背景は、お互いへの愛情が冷めてしまった1組の夫婦の、それぞれの些細な行動から始まった。
会社員と専業主婦の夫婦。
30代後半の夫は、会社に20代半ばの愛人がいた。30代半ばの妻はそのことに気づき、腹いせにエスコートサービスの男性と浮気して、次第に本気でのめりこんでしまった。妻は思いつめ、夫を殺してしまおうと計画する。
ある冬の金曜の晩、夫に大量のアルコールを飲ませ、酩酊状態になったところさらにストローで度数の高い酒を彼ののどに流し込んだ。ほとんど意識のなくなった夫をリビングのソファの上で牛刀で刺し殺した。
妻は放心状態で、その週末を夫の遺体と共に過ごした。月曜日、無断欠勤した夫の会社によって警察に連絡が入り、マンションの管理会社と会社の部下がその惨状を発見した。
夫殺しの妻の裁判は、現在も公判中だった。
蒼はたまたま裁判所の門を出たところでその事件の担当の裁判長と久々に遇い、他愛ない立ち話をしていたところだった。
そこにふいに刃物を持った若い女が、裁判長めがけて突進してきた。
それは被告人が殺した夫で被害者の、愛人だった女。
女の殺意は完全に裁判長に向けられていた。
蒼は裁判長をかばい、細身のナイフで刺されたらしい。
暉が会計士と共に事務所を訪れたとき、ちょうど事務所には蒼が刺されて救急搬送されたという連絡が入り、全員がパニックに陥っていた時だった。
搬送先の病院が分かったとの連絡が入ったところで、暉は私に連絡してきたのだ。
どこをどう刺されたのか、どれほど酷い状態なのか、まだはっきりとはわからないとのことだった。
私は暉から聞いた病院へ向かった。
落ち着いて、落ち着いて、落ち着いて。
信号で停車するたびに、信号が黄色に点滅するたびに自分に言い聞かす。
「朔! こっちこっち!」
ロビーの待合椅子の端っこに立っていた暉が手を上げる。
私は暉に駆け寄って腕をつかむ。
「刺されたって、どういうこと⁈」
「いや、それが……あっ、融さん!」
通路を歩いてきた50代前半くらいの洗練されたスーツ姿の男性に、暉が気が付いて声をかける。
「あ、暉君」
男性は疲労感に満ちた顔に苦笑を浮かべた。
「蒼は⁈」
暉の問いに、男性は大きなため息をつく。
「まったく……どうなったらああなるんだか。今、処置しているらしい。おや? そちらはもしや……?」
男性は暉の腕にしがみついて(おそらくは)この世の終わりのような絶望の表情の私を見た。
「朔です」
暉が答える。
「ああ~! きみが! そうか、いや、やっと会えたのがまさかこんな時なんて。はじめまして。蒼の父です」
私は驚いて息をのむ。柔らかい笑顔。50代前半にみえるとは、かなり若く見えるんだ? 若い頃は(今もかな?)さぞモテたでしょうと容易に想像できるダンディぶり。でも、蒼にはあまり似ていないかも。
「は、はじめまして。山野井朔と申します」
「こんな時じゃなければ、お茶か食事にお誘いしたかったけど、またの機会だなぁ。ごめんね、びっくりしたでしょう?」
蒼のお父さん――融さんはへにゃりとまた苦笑した。
「融君」
ハスキーな女性の声がして、私たち3人は通路を振り返る。
紺の襟なしのひとつボタンのロングジャケットに、紺のワイドパンツのスーツ。黒のハイヒールに黒のルブタンのトートバッグ。こちらは40代半ばくらい? の超絶美女。疲れ切った表情をして、右手には包帯を巻いている。
「伊織ちゃん! きみのほうが先に終わったのか! だいじょうぶ?」
融さんは女性に駆け寄ってそっと後ろから肩に手を添え、端っこの椅子に座らせた。
「伊織さんもケガしたんですか?」
暉が眉を顰める。
女性が私と暉を見る。
「あ、暉君。来てくれたのね。私は大丈夫よ。これは突き飛ばされたときに転んで手首をひねっただけだから。そちらは……妹さんね?」
女性は立ち上がり、暉の腕をつかむ私の手の甲にそっと触れて、しょんぼりとしながら言った。
「こんなに青ざめて……私が久しぶりに偶然あの子に会えて、浮かれてちょっと油断しちゃってて。そのせいであなたたちご兄妹に心配をかけてしまったわね。ほんとうにごめんなさい」
きょとんとする私に、暉が囁く。
「蒼のお母さんだよ。一緒にいて、狙われた裁判官」
えっ?
私は驚きを飲み込んだ。そういわれれば、目元、似てる! 蒼はお父さんじゃなくて、お母さん似だったんだ……!
そ、それにしても、お父さんもお母さんも、かなり若く見える……
蒼のお兄さんが33歳って言ってたから、少なくともふたりとも50代ぎりぎりか60代のはず……
「あっ、はじめまして……山野井朔です」
私は慌てて自己紹介した。
「昔からよく暉君から聞いてるから、初めて会った気がしないわね。さあ、処置にもう少しかかるらしいので、とりあえず座りましょう。融君、売店の隣にカフェあったでしょう。コーヒー買ってきて」
「わかった。ちょっと待っててね」
「あ、俺も一緒に行きます。朔、ここで伊織さんと待ってて」
融さんと暉は売店の隣のカフェに向かう。
私は蒼のお母さん――伊織さんと、あまり人がいない端っこの席に座る。
「昼過ぎに、偶然、裁判所の前で蒼に会ったの。ああ、すぐにどこか昼ごはんにでも行けばよかったわね。つい立ち話していたら、担当している公判の被害者の関係者が、私めがけてナイフで襲ってきたの。それを蒼が遮ろうとしてくれて……」
はああ、と伊織さんは深いため息をついた。
「それで……蒼は今……」
「あの子は、麻酔をかけて処置を受けているところよ」
「どこを、どれくらい刺されたんですか?」
「それはね……」
ばたばたばた。ガラガラガラガラガラ……
突き当りの通路を右から左へ、ストレッチャーに載せた人を数人の看護師が速足で運んでいく。
容体は? 出血しています! 脈拍は? 先生は? 手術の手配を! という会話が聞こえた。
血の気が引くって、ああいうことを言うんだな。
ザ――ッ。
たしかに、耳の中でそんな音がした。
そして、目の前が真っ黒に染まる。
「あっ、えっ、ちょっと、お嬢さん! 朔さんっ⁈」
伊織さんの驚きの声が遠くで聞こえる。
私はぷつりと、意識を手放した。