LOVE, HATE + LUST
17-4
「えっ? 家出?」
南中高度の猛烈な日差しがじりじりと照りつける道を、タオルハンカチで照り返しをよけながら歩いてきたるなちゃんは、額につぶつぶと汗を浮かばせて真剣な表情で静かにうなずいた。
ふと視線を落とすと、淡い水色のシャツワンピースにサンダル、小さなハンドバッグという、普通にお出かけの格好。
家出?
「はい。家出です。もう……もう、耐えられません」
私は喉が詰まり、少し声が上ずってしまう。
「お母さんとけんかしたの?」
「……はい」
こくり。少女はうなずく。
またまた屋根部屋に戻る。
心配そうな表情の海里君が、冷たいレモンティーをるなちゃんのために運んできてくれる。彼は何か言いたげにもごもごと口を動かしかけたけれど、思い直してそのまま階段を下りてゆく。
両手をグーに握り締め、腕を突っ張ったまま拳を膝に置きうつむくるなちゃんが原因を話し出す。
最近、ピアノが嫌になってもう続けたくない。やる気がないのでミスも多いし、先生にも注意されることが増えた。それで母親に責められたらしい。
ピアノのことだけでなく成績が伸びないこと、模試の結果も芳しくなく塾もさぼりがちなこと。そのうえ男の子(歩君)と遊び歩くなんて、と。
じわり。大きな目にみるみる涙がにじむ。私はテーブルの上のティッシュを一枚引き抜いて差し出した。
「お……男の子と出かける暇があるなら、他にするべきことがあるでしょって。たしかに歩君は男の子だけど、私の話をよく聞いてくれて、アドバイスくれたり、元気づけてくれたり、一番の友達なのに」
「そうだね。歩君は、いい子だよね」
「ピアノのことなのに、全部のことを、責めるんです。ひどい。もう、耐えられないっ……」
半分血のつながった妹は、えっえっと小さな嗚咽の声を上げて涙をあふれさせる。
しばらく彼女が落ち着くまで、薄い背中をさすって待つ。
「——落ち着いた? ねぇ、海! 行こうよ!」
赤く充血した大きな瞳が驚きで大きくなる。
「海。私と、ドライブしよう?」
海岸道路は、海水浴客たちで賑わっている。海水浴場から少し離れたところまで車を走らせると、サーファーたちが車をとめる岬のふもとの無料駐車場が見えてくる。
私はそこに愛車をとめる。
「もうすぐ夏休みも終わりだね、るなちゃん」
シートベルトを外して伸びをする私に、るなちゃんは小さくうなずく。
「また、同じ毎日が始まります……」
「そうだね。でもきっと、毎日少しずつ違うこともあるし、嫌なこともきっと必ず意味があると思うよ。お母さんがいろいろ口出ししちゃうのはね、大人から見ると子供がすごく危なげに見えるからなんだと思う。それでもストレスが溜まってどうしようもなくなったら、いつでも憂さ晴らしに付き合うよ」
「朔おねえさんは大人がよく言うように、ああしなさい、こうしなさいって言わないんですね……」
「はは。言われても無理なことたくさんあるよね。言われたとき、そう思ったから。自分で無理なことはひとに勧められないでしょ?」
「ふふ……はい」
私の妹が、やっと笑った。
それから私たちは海辺のカフェに行っておしゃべりして、夕日を見て帰った。
るなちゃんを彼女の家の最寄りの駅に降ろしてさよならをする。もう家出なんて言い出しませんように。
帰宅するとカフェはもう閉まっていて、みんな帰った後だった。
シャワーのあと中庭に面した濡縁に座り、ぼんやり庭を眺める。
オレンジ色の斜陽が差し込んで、濃い陰翳を生み出す。
なんとなく、夕飯を作る気がしない。
真夏の日差しを蓄積してぼんやりと温まったままの板床にゴロンと寝転がる。ブ、ブーとスマホがうなる。
「はい、なぁに?」
のろのろと出ると、少し間があっていぶかし気な蒼の声が聞こえてくる。
「どうした? 元気ないみたいだけど?」
私は口の両端を引き上げる。「はい、なぁに?」だけで、そんなことがわかるの?
「帰ってきたら、教える」
「それなんだけど。出かける支度しといて。夕飯、外でとろう。植物園のガラスドーム行こう」
30分後にな、と電話が切れる。
ごろりと転がった反動で飛び起きる。
支度!
アールデコスタイルの巨大なガラスのドームは、熱帯植物の温室を兼ねたカフェレストランになっている。
退勤の少し前にボス弁であるお父さんから、今夜の予約だけど行くか? と譲られたらしい。融さんは新妻とデートの予定だったのに、いきなり大手クライアントのパーティに出席しないといけなくなったとぼやいていたとか。
紺の麻のAラインマキシワンピースにベージュのスリングバックパンプス。髪は緩く後ろでまとめて、蒼からもらったアクアマリンのブレスレットをつけて。
「頭のてっぺんからつま先まで、俺の好みだ」
私はぷっと吹き出す。
「頭のてっぺんとつま先の好みって、一体」
――最近やっとわかってきたけど。
電話で私が変だったから、笑わせようとしているみたい。
グラスハウスの入り口から入って左手には、レストランカフェの空間がある。エルのホテルのカフェとはちょっと違うのは、様式の違いが出す雰囲気かな。
”Echo”と書かれた看板の傍らに立つ受付の美女に予約の名前を告げると白い石造りの噴水の近くの席へ通された。
「飲めないのが残念」
丸いテーブルに隣り合って座る。メニューを見ながら蒼が言う。
「私が運転してもいいよ」
「いい、帰ってから飲もう」
ここでは、トニックウォーターで。
料理はすでに、融さんが予約時に決めてあったとのこと。何が出てくるのかは、お楽しみ。
今日は午前中にあかねさんが遊びに来たこととか、お昼にるなちゃんが家出してきたことを話す。
暉の計画は……まさか、13年も前から計画してたなんて蒼が知ればキモチ悪がるかもしれないから黙っておこう。暉が黙っているのなら、私も知らないふりをしておくに越したことはないかな。
「子供の家出を阻止したことは、よくできました。でもそれであんたが、元気なくなったわけか」
「えっ?」
「母親のことだろ?」
「……」
どうして、わかっちゃうんだろう。
私はこくりとうなずいて、うつむいたまま下唇を軽く噛んで言った。
「るなちゃんのお母さんに関しては、別に何とも思わない。だって、私は彼女をよく知らないから。だから……るなちゃんみたいな悩みもなかったし」
お母さんがうるさいの。私のすることをすべて否定するの。
そんな悩み、私にはなかった。
「私には……妙子さんと暉がいたから。お母さんじゃなくても、私のことを気にかけてくれる人たち。だから少しも寂しくはなかったけど。でも……小さいけどぽっかりと底の見えない穴が心に開いていて、そのことに今日まで気づきもしなかったんだ」
「じゃあ、その穴を埋めたいか? お母さんに会いたいって思った?」
「いや、正直に言って、会ってもどうしたらいいか何を話せばいいのかまったく思いつかないな。24年も会わなかったら、もう他人でしょ。るなちゃんのお母さん、としか認識できないと思う……あ」
私は息をのむ。蒼は首をかしげる。
「私……私は、ただ……」