私的な旋律
あのあと和樹に引きずられるようにタクシーに放り込まれて、早退してくれた瑛子とともに帰宅したことだけはぼんやりと記憶にあった。
自宅でようやく一息ついたものの、まだ頭ははっきりとせず、全身はひどくだるい。とりあえず倒れこむように横になったリビングのソファで、手のひらを額に当てる。それだけでかなり熱があることが分かる。
医者だからわかる。これは、風邪だ。
疲労とストレスで免疫力が落ちていたところに何らかのウイルスが加わり、その力を発揮したのだ。
「信じられない。40度の熱でお酒を飲みに来るなんて」
心配しているようでありながら、どこか呆れたような声で体温計の数字を見ながら瑛子が言った。職場を出たときは38℃ほどだった熱は、その後勢いよく上昇し続けたのだ。半ばヤケになってお酒を飲んでいたことは、博樹自身、愚かだとは思っていた。
そして三藤不動産の御曹司が、最初から瑛子が既婚者であることを知っていて、急なアルバイトを引き受けてくれた瑛子に感謝する気持ちで親切にしていただけということも、わかってしまえばどうってことのないことだった。カクテルをプレゼントされる姿も、家まで送ってもらって帰ってきたことも、「よかったね」で済む話だった。
聞くところによると、彼は音楽、なかでもジャズがかなり好きなのだとか。一人で空回りして、嫉妬に苦しんで、妻の職場で熱を出して倒れるなんて、しかもそれが医者だと知れたらこんなに情けないことはない。
「和樹が、今日の食事代は後日三倍で返してもらうって。みんなで焼肉食べたいって言ってたわよ」
瑛子が笑って言う。
ああ、弟が会計をしておいてくれたのか。彼にも感謝すべきだろうか、と思いつつ博樹の表情は険しくなる。
そもそもあいつが呼び出したりしなければこんな無理をすることもなかったのに、と博樹は思いながらも、やはり憎めなかった。嫉妬という感情も、いかに自分が妻を愛しているかも、これほど実感する機会は、彼がいなければなかった。
同時に文句を言いながら会計をし、自分をタクシーまで運ぶ弟を思うと、つい笑みもこぼれる。弟と一緒にいた女性にも迷惑をかけてしまったから、焼肉くらいご馳走すべきだろう。
仕事でなく、なんのしがらみもなく、ただ賑やかにみんなで食事をする。それはきっと楽しい時間になるはずだ。
博樹がリビングのソファにもたれかかっていると、腰をかがめて瑛子が顔を近づけてきた。久しぶりにまともにこの距離で瑛子の顔を見たと思うと同時に、瑛子のステージ用だという真っ赤な口紅が妙に色っぽくて、博樹の頭はまた熱くなる。
触れたい、と思って手を伸ばそうとしたところで、瑛子のほうがその細く白い指先で博樹の前髪をかき分ける。
そして次の瞬間、ぺたり、と博樹の額に熱さましのシートを貼りつけた。
「…!」
冷たいジェル状のシートに一瞬肩を震わせて、心の中では唇を期待した自分が恥ずかしくなる。冷却シートはまるで不甲斐なさの紋章のようでかっこわるい。
ため息を一つつくと博樹はこれ以上情けないところは見せたくなくて、ゆっくりと立ち上がる。
「解熱剤を飲んで寝てれば明日には治るよ」
のそりと歩く片手に経口補水液のペットボトルを携えて、よろめきながら博樹は寝室に向かう。明日が休日でよかったとつくづく思う。それでも、熱さえなければ瑛子と出かけたり、昼間からシャンパンを開けたりして、もっといい過ごし方ができたであろうと思うと、また少し自分に嫌気がさす。それでも瑛子が自分と一緒に家にいてくれることは、これ以上ないありがたいことだった。
天気のいい週末、友人と出かけてくると言われても、実家に顔を出してくると言われても引き留められない。それでもただ一緒にいてくれることの貴重さ。健やかなるときだけでなく、病めるときも一緒にいてくれることに、博樹は不謹慎ながら嬉しくなる。
何か必要なものがあれば言って、と言う瑛子に博樹は一つお願いをした。
ピアノを弾いていて欲しい、と。自分が眠りにつくまで、30分かそのくらい。好きな曲でも練習でもなんでもいいからと。
そんなことでいいの?と確認する瑛子に博樹はうん、とだけ返事をする。
ラウンジで弾いていたとっておきの曲とやらは正直頭に入って来なかったのだ。もっとも、そんなの聴く気はなかったのかもしれない。自分以外の人間のための演奏は、自分にとって特別な音ではない。聴きたいのは瑛子が自分のためだけに奏でてくれる曲。
やがて博樹がベッドで横になっていると音楽が響き始めた。
熱でぼんやりとした頭に響く優しいピアノの音に、博樹は安堵する。見えないけれど、きっと彼女のその左手の薬指には、確かに指輪が光っている。ときおりわかるミスタッチもテンポの乱れも愛おしいほどに、これは仕事で弾いているのとは違う、自分のためだけの演奏。
ああ、これはキース・ジャレットの『メロディ・アット・ナイト・ウィズ・ユー』の中の1曲だ。
療養中の自分を支えてくれた妻に、キース・ジャレットが捧げた、愛に満ちたロマンティックな旋律。
甘いメロディはこの夜のなかでゆりかごのように脳に心地よく響く。その音色に今にも寝そうになりながら博樹は静かに瞼を閉じて、瑛子にあとで、もう一度きちんとありがとうと言おうと思った。こんな情けない姿を見せることができるのも、他にいない。大切で、心配でたまらなくて、どうしようもないくらいに好きで、思わず熱を出すほどに、僕には君だけなんだと、必ず伝えよう。そう思った。