私的な旋律
その店内に入ると、庭園まで見渡せる広い空間の隅にグランドピアノがぽつんと置かれていた。
そこに瑛子がいない代わりに、そこから数メートル離れた斜め後ろのソファ席に和樹がいた。彼は兄に気づくと軽く手を挙げてお疲れ様、と声をかけた。
金色の液体が輝くグラスを傾けて、にんまりと微笑む弟に、博樹はなんだか胸が騒ぐのを感じる。
「瑛子は?」
「9時になったら出てくるよ。今は休憩」
時計を見ると午後8時50分。スケジュールまで把握しているなんて、和樹はどういうつもりなのか。
「いったいどういうつもりだ?一緒に飲もうだなんて」
弟の2杯目と合わせるようにカクテルを一つもらって、博樹は話を切りだした。
「瑛子が愚痴ってたから。兄貴が迎えに来てくれないのは仕方ないけど寂しいって言うからさ」
フン、と若干つまらなそうに顔を背けて和樹はマティーニに添えられたオリーブを口に入れた。
その話を聞いて、博樹は瑛子に対して申し訳ない気持ちと、弟に対する感謝の気持ちが湧いてきた。確かに、和樹からあのように連絡をもらえば、何か本当に行かないといけない事態なのかと思う。
「付き合わせて悪いね」
「別に。ほら、瑛子出てきた。聴こう」
和樹に言われて視線を彼の指さすほうに向けると、カウンター横のカーテンの後ろから瑛子が出てきた。ブルーのロングドレス。卒業演奏会用にオーダーしたというそれは、今でもお気に入りだと瑛子は言っていた。実際に着ているところを見るのは博樹も初めてで、それは目を奪う美しさだった。この夜に溶け込むような静かさ。それでいて自分の中で譲れない芯の強さはきちんと表れている。瑛子らしいスタイル。それと同時に露になっている肩や細い腕、白い背中を他の誰にも見せたくないと、つい嫉妬する。
もちろんコンサートではないので、人々はただのBGMとしてピアノの音など聞き流している人がほとんどだろう。博樹自身も、こういう場所で流れている音楽にじっくりと耳を傾けたことはなかったように思う。それでも今は、瑛子のファンのように、じっと耳を澄ませて、目を見開いて、一つも取りこぼさないように必死だった。
曲目は、いつも聴いたことのない、クラシックとは違う曲だった。この空間に溶け込むような曲をセレクトしているのだろう。どこかで聴いたことのあるような、それでいて聴き流せるような主張しない音色。この場所にいる人々のための優しい音色。たくさんの人が瑛子の演奏で癒されたらいいと思う。でも自分のものだけにしておきたいとも思う。そんな二つの相反する気持ちに悩まされながらも30分程の舞台はひっそりと幕を下ろす。
瑛子が演奏を終えると、一部の客はそれに気づいて拍手を送る。博樹も同じように拍手をして、さあ瑛子と一緒に帰ろう、と思っていた。
「和樹はどうする?もう少し飲んでいく?」
「兄貴、見てな」
和樹は質問に答えずに言った。
何を見ろというのだ、と思って博樹は怪訝な顔をしてその視線の先を見ると、瑛子がカクテルを手に持って、カウンターに座る一人の男性に笑顔でお辞儀をしていた。どうやらカクテルをプレゼントされたらしい。スーツ姿のその男性が、自分と同年代くらいの男性であることは遠目でもわかった。それと同時に、その行動と横顔だけで、瑛子を特別扱いしていることも。
「な、今日は飲みに来たほうがいいって言っただろう?金曜日はいつも来てくれるんだってさ」
和樹の、澄ました横顔。どういうつもりで自分を呼びつけたのか、博樹はやっとわかった。この光景を見せるためだったのだ。
「三藤不動産の跡取りらしいよ」
三藤不動産といえば、総合商社の関連会社の一つで、国内外のマンションのほか、ショッピングモールやアウトレットなども展開しており、このホテルを所有しているのもそうだ。
「なんでそんなことまで」
知っているのか、と聞くまでもなかった。
「瑛子が教えてくれたから」
得意げにそう言う弟の澄ました横顔が博樹は憎くてたまらなかった。忙しさを言い訳に瑛子とゆっくりと食事をする時間も作っていなかったのは自分だが、瑛子が話をする相手に弟を選んだことが、ただただ悔しかった。
そんな兄の様子もおかまいなし、と言う様子で、どこか満足げに和樹はそれじゃあ、とさりげなく会計を博樹に押し付けて先に店内を出て行った。
博樹は瑛子がカウンター越しの三藤不動産の御曹司やらの向かいに立ってそのカクテルを1杯飲み干すのをまるで監視するように見つめながら、その終業を待っていた。待つと言う時間の長さに苦しめられながら。
そこに瑛子がいない代わりに、そこから数メートル離れた斜め後ろのソファ席に和樹がいた。彼は兄に気づくと軽く手を挙げてお疲れ様、と声をかけた。
金色の液体が輝くグラスを傾けて、にんまりと微笑む弟に、博樹はなんだか胸が騒ぐのを感じる。
「瑛子は?」
「9時になったら出てくるよ。今は休憩」
時計を見ると午後8時50分。スケジュールまで把握しているなんて、和樹はどういうつもりなのか。
「いったいどういうつもりだ?一緒に飲もうだなんて」
弟の2杯目と合わせるようにカクテルを一つもらって、博樹は話を切りだした。
「瑛子が愚痴ってたから。兄貴が迎えに来てくれないのは仕方ないけど寂しいって言うからさ」
フン、と若干つまらなそうに顔を背けて和樹はマティーニに添えられたオリーブを口に入れた。
その話を聞いて、博樹は瑛子に対して申し訳ない気持ちと、弟に対する感謝の気持ちが湧いてきた。確かに、和樹からあのように連絡をもらえば、何か本当に行かないといけない事態なのかと思う。
「付き合わせて悪いね」
「別に。ほら、瑛子出てきた。聴こう」
和樹に言われて視線を彼の指さすほうに向けると、カウンター横のカーテンの後ろから瑛子が出てきた。ブルーのロングドレス。卒業演奏会用にオーダーしたというそれは、今でもお気に入りだと瑛子は言っていた。実際に着ているところを見るのは博樹も初めてで、それは目を奪う美しさだった。この夜に溶け込むような静かさ。それでいて自分の中で譲れない芯の強さはきちんと表れている。瑛子らしいスタイル。それと同時に露になっている肩や細い腕、白い背中を他の誰にも見せたくないと、つい嫉妬する。
もちろんコンサートではないので、人々はただのBGMとしてピアノの音など聞き流している人がほとんどだろう。博樹自身も、こういう場所で流れている音楽にじっくりと耳を傾けたことはなかったように思う。それでも今は、瑛子のファンのように、じっと耳を澄ませて、目を見開いて、一つも取りこぼさないように必死だった。
曲目は、いつも聴いたことのない、クラシックとは違う曲だった。この空間に溶け込むような曲をセレクトしているのだろう。どこかで聴いたことのあるような、それでいて聴き流せるような主張しない音色。この場所にいる人々のための優しい音色。たくさんの人が瑛子の演奏で癒されたらいいと思う。でも自分のものだけにしておきたいとも思う。そんな二つの相反する気持ちに悩まされながらも30分程の舞台はひっそりと幕を下ろす。
瑛子が演奏を終えると、一部の客はそれに気づいて拍手を送る。博樹も同じように拍手をして、さあ瑛子と一緒に帰ろう、と思っていた。
「和樹はどうする?もう少し飲んでいく?」
「兄貴、見てな」
和樹は質問に答えずに言った。
何を見ろというのだ、と思って博樹は怪訝な顔をしてその視線の先を見ると、瑛子がカクテルを手に持って、カウンターに座る一人の男性に笑顔でお辞儀をしていた。どうやらカクテルをプレゼントされたらしい。スーツ姿のその男性が、自分と同年代くらいの男性であることは遠目でもわかった。それと同時に、その行動と横顔だけで、瑛子を特別扱いしていることも。
「な、今日は飲みに来たほうがいいって言っただろう?金曜日はいつも来てくれるんだってさ」
和樹の、澄ました横顔。どういうつもりで自分を呼びつけたのか、博樹はやっとわかった。この光景を見せるためだったのだ。
「三藤不動産の跡取りらしいよ」
三藤不動産といえば、総合商社の関連会社の一つで、国内外のマンションのほか、ショッピングモールやアウトレットなども展開しており、このホテルを所有しているのもそうだ。
「なんでそんなことまで」
知っているのか、と聞くまでもなかった。
「瑛子が教えてくれたから」
得意げにそう言う弟の澄ました横顔が博樹は憎くてたまらなかった。忙しさを言い訳に瑛子とゆっくりと食事をする時間も作っていなかったのは自分だが、瑛子が話をする相手に弟を選んだことが、ただただ悔しかった。
そんな兄の様子もおかまいなし、と言う様子で、どこか満足げに和樹はそれじゃあ、とさりげなく会計を博樹に押し付けて先に店内を出て行った。
博樹は瑛子がカウンター越しの三藤不動産の御曹司やらの向かいに立ってそのカクテルを1杯飲み干すのをまるで監視するように見つめながら、その終業を待っていた。待つと言う時間の長さに苦しめられながら。