私的な旋律
帰りのタクシーの中では、瑛子と博樹は静かに世間話をした。
「和樹が誘ったの?二人で来るなんて想定外で、実はびっくりして、ちょっと緊張したの」
「今日弾いた曲わかった?」
「お待たせしちゃって申し訳なかったわね。でも一緒に帰れて嬉しいわ」
そんな瑛子の言葉に博樹は、ぽつり、ぽつりと返事をする。それが瑛子の目に不思議に映ったのは言うまでもない。
自宅に着くと時刻は22時半近くだった。
「軽く食べる?」
笑顔でそうめんの袋を手に持って近づいてくる瑛子に、博樹は言った。
「わざわざ作らなくていいよ。瑛子も疲れているだろうから。」
気遣ったつもりの言葉にどうやらトゲがあったらしく、瑛子がその表情を曇らせた。
「私が仕事するの、やっぱりよくないわよね。ごめんなさい。本当はきちんと家で食事を用意しているべきだったわ」
お風呂沸かしてくる、と言って瑛子がダイニングから出ようとしたので、博樹は慌ててその手を掴んだ。
「違う、そうじゃない。ごめん、瑛子。」
そのまま抱き寄せられた瑛子は、博樹の腕の中にすっぽりと納まる。他の誰にも与えられていない権利を自分はもらっているのに、たかだかカクテルをプレゼントされた姿を見て嫉妬していた、なんて話をしたら、瑛子は笑ってくれるだろうか。
「今日、とてもきれいだったよ。演奏もすばらしかった。誰にも見せたくないと思うほど、瑛子は魅力的だった。」
本当の気持ちを伝えたつもりだった。この素直な感情を、瑛子はどれだけわかってくれるだろうか。
瑛子は抱き寄せられた胸の中から顔を上げて、博樹を見た。
「本当に?」
自分だけを見る瑛子の瞳に、博樹は嫉妬したことへの申し訳なさが込みあげるとともに、その愛おしさについ表情を緩めた。
「本当だよ。ちょっと心配だけど、あと5か月、楽しく続けて。」
瑛子はクスッと笑った。
「何も心配するようなことはないのよ。練習も頑張るし、カクテルをくださった三藤さんも、自分がオーナーだから、ああやって労ってくださっているだけだし。」
にゅうめん、作るわね、と言ってお湯を沸かそうとケトルを持った瑛子の左手を見て、博樹は目を見開いた。
「指輪は?」
いつも瑛子の左手の薬指にある指輪がないことに博樹が気づいて、思わず聞いた。瑛子はきょとんと目を丸くしている。
「え?ああ、マリッジリングね。きちんと演奏するときは、私、指輪を外すのよ。遊びで弾くときはいいんだけど、やっぱりちょっと気になるというか、何もつけていないほうが集中できるし指がよく動くのよね。」
「仕事に行くときは、つけて行ってるんだよね?」
いつになく深刻な顔で博樹が聞くので、瑛子は困ったように控えめに笑顔を作って答える。
「最初の面接のときはつけて行ったけれど、今は、なくしたら困るから家に置いていってるわ」
その瞬間、博樹の中で嫌な予感が全身を走り抜ける感じがした。瑛子を眺める一人の男の横顔、ドレスと同じ色のカクテル。それらが、深い意味を持っていることを、瑛子は気づいていないのだろうか。
お湯が沸くのを待っている瑛子は機嫌よさそうにシューベルトの野ばらをドイツ語で歌っている。その美しく呑気な横顔を、博樹はただ茫然と見ていた。
「和樹が誘ったの?二人で来るなんて想定外で、実はびっくりして、ちょっと緊張したの」
「今日弾いた曲わかった?」
「お待たせしちゃって申し訳なかったわね。でも一緒に帰れて嬉しいわ」
そんな瑛子の言葉に博樹は、ぽつり、ぽつりと返事をする。それが瑛子の目に不思議に映ったのは言うまでもない。
自宅に着くと時刻は22時半近くだった。
「軽く食べる?」
笑顔でそうめんの袋を手に持って近づいてくる瑛子に、博樹は言った。
「わざわざ作らなくていいよ。瑛子も疲れているだろうから。」
気遣ったつもりの言葉にどうやらトゲがあったらしく、瑛子がその表情を曇らせた。
「私が仕事するの、やっぱりよくないわよね。ごめんなさい。本当はきちんと家で食事を用意しているべきだったわ」
お風呂沸かしてくる、と言って瑛子がダイニングから出ようとしたので、博樹は慌ててその手を掴んだ。
「違う、そうじゃない。ごめん、瑛子。」
そのまま抱き寄せられた瑛子は、博樹の腕の中にすっぽりと納まる。他の誰にも与えられていない権利を自分はもらっているのに、たかだかカクテルをプレゼントされた姿を見て嫉妬していた、なんて話をしたら、瑛子は笑ってくれるだろうか。
「今日、とてもきれいだったよ。演奏もすばらしかった。誰にも見せたくないと思うほど、瑛子は魅力的だった。」
本当の気持ちを伝えたつもりだった。この素直な感情を、瑛子はどれだけわかってくれるだろうか。
瑛子は抱き寄せられた胸の中から顔を上げて、博樹を見た。
「本当に?」
自分だけを見る瑛子の瞳に、博樹は嫉妬したことへの申し訳なさが込みあげるとともに、その愛おしさについ表情を緩めた。
「本当だよ。ちょっと心配だけど、あと5か月、楽しく続けて。」
瑛子はクスッと笑った。
「何も心配するようなことはないのよ。練習も頑張るし、カクテルをくださった三藤さんも、自分がオーナーだから、ああやって労ってくださっているだけだし。」
にゅうめん、作るわね、と言ってお湯を沸かそうとケトルを持った瑛子の左手を見て、博樹は目を見開いた。
「指輪は?」
いつも瑛子の左手の薬指にある指輪がないことに博樹が気づいて、思わず聞いた。瑛子はきょとんと目を丸くしている。
「え?ああ、マリッジリングね。きちんと演奏するときは、私、指輪を外すのよ。遊びで弾くときはいいんだけど、やっぱりちょっと気になるというか、何もつけていないほうが集中できるし指がよく動くのよね。」
「仕事に行くときは、つけて行ってるんだよね?」
いつになく深刻な顔で博樹が聞くので、瑛子は困ったように控えめに笑顔を作って答える。
「最初の面接のときはつけて行ったけれど、今は、なくしたら困るから家に置いていってるわ」
その瞬間、博樹の中で嫌な予感が全身を走り抜ける感じがした。瑛子を眺める一人の男の横顔、ドレスと同じ色のカクテル。それらが、深い意味を持っていることを、瑛子は気づいていないのだろうか。
お湯が沸くのを待っている瑛子は機嫌よさそうにシューベルトの野ばらをドイツ語で歌っている。その美しく呑気な横顔を、博樹はただ茫然と見ていた。