殺すように、愛して。
 理性と本能が脳内をめちゃくちゃに掻き回しているような、自分はなんなのか、自分は何をしているのか、自分の身に何が起きているのか、何が起きようとしているのか、自分で自分が分からなくなるような、そんな曖昧な現実の中、立っているわけでもないのにぐらぐらと目眩を起こしてしまう俺は、まるで吐き癖がついてしまったかのように嘔吐いてしまった。出るものは、ない。ないのに、気分が悪くて仕方がない。

「……気になる、けど、やめといた方が」

「大丈夫。大丈夫。俺は、我慢できる……」

「……男子トイレ、で、この匂い、ってことは、男の、オメガ」

「何言って……」

「誰か、知りたい……」

 どことなく、成立していない会話。空気が変化する僅かな振動。それは俺のいる場所にまで伝わって。ここに来た本来の目的を忘れた彼らが、匂いの出所を嗅覚のみで探るようにゆっくりと歩き始めたことを知らせているかのようだった。

 逃げないと。逃げなければ。でも。逃げられない。

 逃げないと。逃げなければ。でも。逃げられない。

 逃げないと。逃げなければ。でも。逃げられない。

 ここから出ると捕まる。出なくても見つかる。助かる術はなかった。彼らが正気に戻ることを願うしかない。

 でもそれは、聞こえる吐息が、オメガ、誰、と小さく呟くような声が、絶望的にさせていた。足音が、近づいてくる。焦りが、募る。

 いやだいやだいやだいやだ。

 くるなくるなくるなくるな。

 やめてやめてやめてやめて。
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