息霊ーイキリョウー/長編ホラーミステリー
死者の葛藤/その10


”本来ならこれから向井邸で彼女たちと会って、その場で目と耳にしたことを、コイツ自身が捉えればいい。だが、我々がこの後対峙する現場は、通常の対処では通用しない事態も考えられる。やはり新田には、あらかじめの備えをさせておかないと…”

秋川は移動中の車内で新田のモードチェンジを図っていた。

「…はっきり言って、今はそこのところまで頭がついていけません。仮説でも自分、無理です」

「ああ、それでいい。目の前に”立ちはだかったモン”から逃避しなきゃな。デカとして生きていく道を選んだ一人の人間としてよう」

「…」

百戦錬磨の先輩刑事の突飛な突き放しと、やけに未知の領域を連想させたその語感に、新田の拒絶心は隙間を開けられた様だった。

「…あの、秋川さん…。備えもありますんで…。向井祐二が死んだ後まで葛藤を抱えてるっての、もう少しお願いします。”仮説”として聞きますから」

秋川は思わずニヤリとした。
新田が”備え”という言葉を口にしてくれたことが、先輩刑事として単純にうれしかったのだ。

...


「あのな…、死者が葛藤を抱えて苦しみながら、こっちの世界に作用を及ぼしてる…。ふう、こんなこと、俺だって話してるそばから気が変になりそうだよ、正直な。だが、それをやり過ごせば、見えてくるもんもあるよ。…思うに、肝になるのは祐二は律子さんを愛した心に従って、まあ、それが良かれという判断でな。死人の判断うんぬんとかって、突っ込まれたらそれで終わるさ、そりゃあよう…」

「律子さんを愛するが故、場合によっては、彼女を苦しめる人間を殺すと…。そういうことがあり得ると言うんですね!」

「…まあ、そんなとこでの解釈で大差はない。あと、彼女が憎む人間もかな…。祐二は死んだ瞬間、すべてを悟ったことで、律子さんを愛せた自分を知ったんだろうと、そう思えてならないんだ。その時、彼は初めて確信できたんだ。人のために何でもできる自分を。俺にはよう…、そう想像すると、彼がその心に基づいて生まれるエネルギーってのは、偉く強いものじゃないかってな…、そんなことも考えちまう訳だよ」

「秋川さん、向井祐二は自ら命を絶った。それは罪なことかもしれないが、生前の彼は、善良で真面目な人間だった訳ですよね?」

「ああ、俺が思うには絵にかいたような”いい人”だったと思うし、おそらく間違いないだろう。ただし、世間の目から見てってことになるだろうが…」

「そんな生前を持った人間が、死んでから人を殺すなんてことが本当にあったとしたら、何とも悲しいですよ!そんなの…」

「ああ。だが、俺はむしろ、そういうところに行き着いた道程こそが悲しく思えるんだ…」

この後、二人の会話は途絶えた…。

...


午後12時26分…。

隠山トンネルを抜けたすぐ先の尾隠し地蔵の前で、新田の運転する白いプリウスは停車した。

”ハイブリット車の低エンジン音が、異様なほど静寂なこの土地に配慮しているようだ。なんなんだ、これは!”

そう思えるほど、この場所には、自分たち人間以外のもの同士、なにがしかの交信が行き交っているんじゃないかと感じさせる、そこまでの迫ってくるような佇まいがあった。

この時の秋川には、それが妙に苛立ちを覚えていた。
何故だか…。

「あそこの枝だな。祐二はちょうど斜め下の地蔵を見下ろす角度で首を吊っていたってことだよな…」

”そこ”に指さす彼は、ややけくそ気味だった。

「なんとも言葉が出ませんよ、俺には…」

二人は手を合わせ、目をつぶり、冥福を祈った。
しかし、二人とも心のどこかでは、”もう一つ”の願いを、ここで生を終えた”彼”に届けていたに違いない。

...


午後12時33分…。

尾隠しの集落に入り、徐行しながら山道の両脇を二人は注意深く目配りして緩やかな登り坂を進むと、向かって右手に黄色い軽が庭先に止まっている家があった。

「ああ、ここだぞ。間違いない…」

新田は狭い道幅いっぱいに回り込んで、かなり息苦しい感じの門の間を慎重に通過していった。

庭先に入り車を止めると、玄関からは二人の女性が表に出てきた。

”やっと律子にご対面できるのか…”

秋川には、ほんの数日前には何のかかわりもなかった若い女性と対面が叶った今この時が、まさに百年待ったくらいに思え、胸が高ぶるのを禁じ得なかった。






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