※追加更新終了【短編集】恋人になってくれませんか?
 その時だった。聞きなれぬ声がノナの名を呼ぶ。透き通った水のような、清涼で静かな男性の声だった。声はノナの上方――――湖の方から聞こえる。
 顔を上げれば、そこにはこの世のものとは思えない、美しい男性が浮かんでいた。
 白銀の長髪、エメラルドのように神秘的な輝きを秘めた瞳、陶器のような白い肌に、品よく整った目鼻立ち。金糸の刺繍が施された豪奢な衣はゆったりとしているものの、引き締まった身体つきをしているのが分かる。そして、男性の頭のてっぺんには、左右に大きな角が生えていた。


(人間じゃ、ない)


 仮に角が無かったとしても、彼が人間でないことは一目瞭然だった。月明かりを一心に浴びた男性は神々しく、そのあまりの美しさに、ノナは息をすることも忘れて見入ってしまう。
 男性はふわりとノナの側に降りると、彼女に向かってそっと手を差し出した。真剣な眼差し。思わずノナも手を差し出す。


「きゃっ」


 その瞬間、ノナの視界がグンッと大きく揺れ動いた。次いで、大きくて冷やりとした何かが、ノナの瞳を優しく覆う。波間を揺蕩うような浮遊感と、風を切るような爽快感が身体を包む。


「え……?」


 目を開けると、先程までそこにあった筈の湖が無くなっていた。ほんの数秒しか経っていない筈なのに、闇夜に浮かぶ月も、十八年間暮らしてきた屋敷も、何もかも――――そこにある筈のものがない。
 代わりに柔らかな陽光と、色とりどりの花々がノナを包む。驚きに目を見開けば、男性が頭上で微笑む気配がした。


< 442 / 528 >

この作品をシェア

pagetop