婚活なんてお断りです!~根暗女と蔑まれた伯爵令嬢が退学を希望していたらなぜか『氷の貴公子』がぐいぐい溺愛してくるんですが~

プロローグ

 
 人間の恋愛とは生殖活動に伴う脳の働きによるものである。
 異性を前にすると種を保存しようとする本能が刺激され、生殖行動の一環として感情が働き始めるのだ。愛だの好きだのは生殖活動をそれらしく偽装した錯覚に過ぎない。

「アリサ・セレーヌさん。あなたの叡智に惹かれました。僕と婚約してください!」
「お断りします」

 つまり、婚約を打診するという行為は生殖活動の一環であるわけで。
 高らかに人前で宣言する行為の淫らさに、誰もが気付いていない。

 いくらこの学園が恋愛至上主義で一定期間に誰からも婚約の打診を申請、ないし受理されなければ鉱山での強制活動が待っているとはいえ、そんなものは嫌だとアリサは思う。

「あなたに興味がありません。さようなら」
「……!」

 アリサは人間としての誇りと羞恥心を正しく持って生きていきたい。
 この活動に抗議するためにも、アホな取り組みを強制する授業は逃げ出してお気に入りのベンチで読書をするに限る。

(だというのに、どうしてこうも邪魔が入るのか)

 アリサは恥じらいを知らない人間を軽蔑する。
 特にこちらの様子を遠くから見守り、

「図書姫、ブレねぇ──!」
「これで百人行ったか!?」
「誰が堕とせんだよあんなの!」

 などと、婚約を打診した男子を囃し立てるような蒙昧な輩は今すぐ死んでほしい。

(……この場所も、もう使えませんね)

 ばたり。本を閉じた彼女が場所を移動しようとすると、男子生徒が腕を掴んできた。

「待ってくれ! もう少し話を聞いてくれ!」
「……お断りすると言ったはずですが」
「僕は本気なんだ。学園で生き残るためじゃない。君に惚れたんだ!」
「わたしのどういうところに惚れたんですか?」
「君は貴族院で優秀な成績を収めた秀才だし、セレーヌ伯爵家の令嬢で……」
「つまり何も知らないということですね。さようなら」

 アリサは本を開き、男子生徒の手から逃れることにした。

「《風を畏れよ、其は主の息吹。汝を導く福音である》『隣人の拒絶(ピクシー・バルク)』」
「うわぁ!?」

 男子生徒の身体を吹き飛ばすような突風が起こった。
 風は男子生徒を宙に浮かび上がらせ、茂みの中に隠れていた群れに放り込んだ。悲鳴の上がった背後を無視して、アリサは第二のお気に入りポイントへ足を向ける。

(……ふぅ。ここなら人が来ませんね)

 学園の図書館は利用者が少なく、閑散としている。
 それでいて人の目がないわけではないから、無闇に話しかけてくる者はいない。

 そう、話しかけ(・・・・)てくる者は(・・・・・)

 アリサが読書を始めると周りの世界が遠ざかっていった。
 それからどれくらい経っただろう。

 一区切りついたところで、隣に誰かが座っているのに気づいた。
 ちらちと横目に見てアリサは歯噛みした。

(来ましたね……わたしの天敵)

 アリサは本で顔を隠しながら、隣に座る男をちらりと見る。
 銀髪の男だ。透き通るような銀髪に鼻筋の通った顔立ち。
 宰相の息子にして侯爵令息という由緒正しき家柄の人物。

(いつもいつも、なんでわたしの居る場所が分かるのかしら。この男は)

 ディザーク・ペストカル、という。
 理知的な光を宿す若草色の瞳が微笑ましそうにアリサを見ていた。

「「……」」

 ディザークは何も話しかけてこない。
 ただ頬杖をついてアリサの顔を見ているだけだ。

「見て……ディザーク様よ。今日も凛々しいわ……」
「ちょっとあんた、話しかけて来なさいよ。今月のノルマ未達成でしょ」
「無理に決まってるじゃない。彼に婚約を断られた人数を知らないの? 私からしたら雲の上の人だわ。それに、彼にはあの人がいるし……」
「やっぱりそう(・・)なのかしら?」
「そうに決まってるわ! 見て、あの熱のこもった視線。彼があんな顔を見せるのは図書姫だけよ!」

 アリサとディザークの周りには誰も寄ってこない。

 そう、これ(・・)こそがディザークの目的である。
 アリサの横に座るディザークは喜びを噛みしめていた。

(俺に気付いたな。本の世界から帰って来たか、アリサ)

 彼女は読書の邪魔をせず見ているだけなら文句を言わない。
 ひとたび彼女が本の世界に没頭すれば、他のものは何も見えなくなるから。
 しかし、図書館で二人っきりで過ごしている事実は周りにどう見えるか?

 見る者が見れば、甘い時を過ごしていると勘違いするだろう。
 その噂はやがて学園の外にまで届き、両家の家族にまで届くに違いない。

 そうすれば外堀は埋めたも同然だ。
 頑なに婚約を嫌がる彼女の逃げ場を失くし、名実共に自分が囲い込める。

 アリサの意志は関係ない。
 既成事実の成立。それこそがディザークの目的──!

(──とかなんとか、考えているんでしょうね、この男は)

 一方、アリサはディザークの考えを正確に読み取っていた。
 伯爵令嬢であるアリサにとって貴族の噂が武器となることは百も承知。

 この男がなぜ自分に言い寄ってくるかは分からないが、相手が外堀を埋めたいことは分かっているのだから、その手段を逆算して類推するのは容易い。

(でもさせませんよ。外堀なんて埋められてたまるものですか!)

 アリサは本で口元を隠して詠唱を始めた。

「《召喚(サモン)》」
「──!」

 ディザークが顔色を変える。
 図書館全体に魔法陣が広がり、生徒たちが騒ぎ始めた。
 魔法陣は床から天井へゆっくりと上がっていき、中心に暗雲が渦巻く。

(ふふ。存分に騒ぐといいわ。わたしの退学のために……!)

「《彼方に座す虚ろなる王よ、戒め解きて牙を見せよ、祖は大いなる僕、其は偉大なる竜、天翔ける竜の閃きを以て今こそ疾く顕れよ》」

 次の瞬間、魔法陣がひときわ強い輝き放ち──

「《汝を喚びし我が名はアリア。出でよ、冥王竜(ヴォルザーク)!』
「キュィイイイイイイイイイイイイイ!!」

 暗雲が弾けて現れたのは小さな黒竜だった。
 アリアが召喚した使い魔は主の命令を受け、周りの女子生徒に飛び掛かる。

「きゃぁあああ! なに、なんなの!?」
「誰かの使い魔!? 図書館での使い魔入室は禁止されてるはずじゃ」
「誰か助けて差し上げて! このままじゃイリアーヌ様の髪が黒焦げになってしまうわ!」

 ディザークは奥歯を噛みしめた。

 (召喚獣を俺ではなく周りに向けることで、俺をこの場から引きはがす作戦か!) 

 使い魔を放置しておけばそのうち騒ぎは収束する。
 しかしその場合、魔力を調べられて犯人が明らかになるだろう。
 さすがに他の生徒を使い魔に襲わせるような真似をすればアリサの退学は免れない。

 だが、それはアリサの目論見通りだ。
 アリサが授業をサボることで学園からの退学を目論んでいるのはディザークも知っている。
 故に、ディザークはこの場から動かざるを得ない。

 (しかし、俺が黒竜を処理すればあの女子生徒に気があると思われ……)

 アリサの外堀を埋めるという作戦は水泡に帰す。
 この召喚が終わった時点でアリサの勝利は確定したようなものだった。
 ディザークを女子生徒に押し付け、自身の望み(退学)を叶える一石二鳥の一手!

(さようならディザーク様。あなたのことは明日まで忘れませんよ)

 にやりと、アリサは口の端を吊り上げた。
 ディザークは深呼吸し、高速で思考をまとめる。立ち上がった。

「じっとしていろ」
「ディザーク様!?」

 女子生徒の頭から黒竜を引きはがしたディザーク。
 アリサが使い魔に念を送ると、黒竜の尻尾がディザークの背中を打ち付けた。
 ディザークは背中を押されるように女子生徒と絡み合い、二人の唇は近づく──

(させるか!)

 その瞬間、ディザークは黒竜をひっつかみ、アリサの足元に放り投げる!

「きゃ!?」

 椅子の足が折れたアリサは後ろへ倒れ──

「大丈夫か、セレーヌ嬢」
「……っ」

 次の瞬間、たくましい男の腕に抱かれていた。
 あっという間にアリサの背後に回り込んだディザークだ。

(こ、これは……)

 いわゆるお姫様抱っこというやつである。
 ぷしゅー! と頭から湯気が噴き出したアリサ。

 顔が真っ赤になって動揺した瞬間、黒竜は煙となって消えた。
 彼らを見守る女子生徒たちは黄色い悲鳴をあげる。
 ある者は写真を撮りある者は顔を両手で覆って指の隙間から二人を覗く。

 ディザークは周りに聞かせるように言った。

何者か(・・・)の使い魔のせいで君の美しい身体が傷つくところだった。怪我はないだろうか、セレーヌ嬢」
「……大丈夫です。おかまいなく」

 ニィ、とディザークの口の端が上がったのをアリサは見逃さなかった。
 彼はアリサの使い魔召喚を逆手に取り、逆に接触する機会を作り出したのだ。
 二人で抱き合うような関係だと周囲には映っただろう。

 ディザークがアリサの耳元へ顔を近づけてささやく。

「今日は俺の勝ちだな」
「~~~~~っ」

 アリサは顔を真っ赤にしてディザークを振り払った。

「きょ、今日のところはこれくらいで勘弁してやります。それではごきげんよう!」
「またな、アリサ」
(あなたとはもう会いたくありません!)

 心の中で悪態をつきながらアリサは空を仰ぐ。
 どうしてこうなったのだろう。

 自分はただ読書が好きで魔法研究が生き甲斐の根暗な女だった。
 間違ってもあんな顔の良い侯爵令息に求婚されるような女ではない。
 あんな男に近付かれたら脳の働きで心臓が爆音を奏でてしまう。

「ああもう、早く退学したい……!」

 廊下を歩きながら、アリサは思い出す。
 この恋愛至上主義の学園に入ることになった、忌まわしき記憶を──
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