燃ゆる想いを 箏の調べに ~あやかし狐の恋の手ほどき~
 置いてあった突っ掛けサンダルに足を通し
ベランダに出る。と、文目(あやめ)も分かたぬほどの
暗闇に誰かが立っていた。逃げ出した譜面は
その人物の周りをくるくる飛んでいて、古都
里はどきどきと鳴る心臓を意識しながら声を
発する。

 「……あ、あのぅ」

 その声に背を向けていたらしい人物がくる
りと振り返る。黒い影に切り取られた、人型
のそれ。まるで呪いのように、いままで見て
きた死神を思い起こし、古都里は恐ろしさに
肩を揺らした。居竦んでしまった体は石のよ
うに硬くなり、外気に触れた指先がどんどん
熱を失ってゆく。けれど次の瞬間、「誰じゃ」
と、その人影から聞き覚えのある声がして、
古都里は金縛りが解けたように息を吐いた。

 「先生?先生ですか?すみません、笹貫で
す。譜面を忘れて取りに戻ったんですけど」

 そこまで言って、はたとその譜面が蝶のよ
うに彼の周りを舞っている現実を思い出す。


――これは手品か何かなのだろうか?


 種明かしを問うてみようと数歩歩み寄っ
たその時、分厚い雲の隙間から月明りが射し
込んで辺りを淡い光が照らした。

 朧気ながらも目の前にいる人物の姿かたち
が見えてくる。顔は間違いなく美しい箏曲者
の、それ。けれどなぜかこちらを見つめる瞳
は黄金色に輝いている。そして絹糸のように
白く輝く髪の隙間から生えているのは、獣の
耳だろうか?神官装束のような着物を身に纏
った彼の背後には、耳と同じ色の尻尾が四本。

 それが、ゆらりと空に向かって揺れていた。

 「きっ、キツネのお化け!?」

 古都里はこれ以上ないほど目を見開くと、
ぽつりと口にした。すると、右京の顔をした
狐のそれが、くつくつと可笑しそうに笑う。

 「お化けとは失礼な。(わし)は妖狐じゃ。狐の
あやかしじゃよ」

 「あ、あやかし!?」

 素っ頓狂な声で反芻した古都里に頷くと、
右京は古都里に歩み寄った。暗闇に目が慣れ
てきたのと、距離が縮まったのとで右京の顔
がはっきりと見える。整った面立ちは何ら変
わらない。けれど「狐のあやかし」だと言っ
た右京には、神秘的な美しさがあった。

 恐ろしさはないものの、どこか現実感がな
いままにぼんやりと見つめていると、右京は
すぅ、と目を細める。

 「信じられぬか?夢でも見とるような顔じ
ゃな」

 「い、いえ。まさか本当にあやかしがこの
世に存在するなんて思ってもみなかったので」

 顔の前で手を振って冷静に受け答えした古
都里の耳に、やや低い声が届く。

 「――人の世にあやかしあり。あやかしと
は人が畏れや不安を抱いた時に生まれるもの
なのじゃ。だから例え、あやかしを信じる者
がいなくとも畏れる心がある限り我らの存在
が消えることはない。多くの者が気付かぬだ
けで、人とあやかしは常に共にあるのじゃ」
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