もうごめん、なんて言わないで


「院長。すみません、少しお話よろしいですか」
「ん、どうかした?」


 眼鏡をかけた少し小太りの男性が振り返る。

 まだ三十代後半なのに機械音痴だからと折りたたみ携帯を持ち続けていて、待ち受けには最近結婚したばかりの奥さんがいる。

 彼は父が古くから知る旧友の息子さんだった。


「大変急で申し訳ないんですけれど、このあと半休で帰らせていただけないでしょうか。友人が仕事に出てしまうみたいで……」
「それは大変だ、急いで帰ってあげなさい。幸い今日は予約も少ないから」
「いつもすみません」


 すぐに状況を察し優しい笑顔で頷く院長に申し訳ない気持ちで頭を下げ、急いでロッカールームで服を着替えた。


 数十分後、クリニックの前には一台の黄色い軽自動車が停まる。

 小さな男の子を抱えた杏奈が走ってきた。


「美亜、本当ごめん!」
「ううん、大丈夫」
「もう、あのへっぽこ編集者のせいだよ。何回言っても話通じないんだから嫌になっちゃう」


 小さい体を抱き上げた途端、満面の笑顔を向けてきて顔をぺたぺたと触ってくる。焦げ茶色の柔らかい髪が風にふんわり揺れて、くりくりとした大きな瞳が私をとらえた。


「あ、お昼は食べさせたからね」


 忙しなく車へ戻る杏奈に手を振り、だんだんと落ちてくる小さな体を抱えなおす。


「まぁま、まぁま」
真空(まそら)、もうちょっと待っててね。すぐお家帰るから」


 腕の中で足をばたつかせ胸にぎゅっと抱き着いてくるのは、あと四ヶ月もすれば二歳になる愛しい我が子だ。事情があって杏奈の助けを得ながら三人で暮らしている。

 はっきりとした目鼻立ちがどことなく父親に似ている。自分の子がこの世に誕生しているとも知らず、今もどこかで空を飛び回っている。

 この子は、俊介との子供だった――。


「ああ、まだいて良かった。悪いんだけどひとつ頼まれてくれないかな」


 帰ろうとしたら院長に呼び止められ、大きな茶封筒を手渡された。


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