もうごめん、なんて言わないで

 クリニックの前は比較的人通りの少ないのどかな通りで、春になると満開の桜が咲く。

 今日は風の音がよく聞こえ、木々が大きく揺れていた。


「この前は香織が変なこと言った。ごめん」


 風になびく前髪をおさえながら、唐突な話題にどう反応したらいいか分からなくなる。


「知らなかった。あんなに可愛い婚約者がいたんだね」
「そっちこそ、歯医者の旦那に子供までいるとかびっくりした」


 お互い言うだけで言って、不自然な沈黙が流れた。

 歯医者の旦那。
 彼の口から出た言葉には肯定も否定もできなかった。

 ここで違うと否定したって、それ以上の質問に答えられるわけがない。ただ黙っていることが今私にできる精いっぱいの抵抗だった。


「教えてくれれば、お祝いとか……したのに」


 後ろめたさから胸がギュッと締め付けられる。

 自分を抱き締めるように組んだ手で、羽織ったカーディガンをぎゅっと握った。


「白河さん、院長が呼んでます」


 呼びに来た受付の子の声で救われた。

 俊介とは目を合わせることもできず、結局なにをしにきたのかも分からない。

 別れ際「じゃあ」と小さく声を絞り出し、逃げるようにクリニックへ戻った。


< 35 / 85 >

この作品をシェア

pagetop