もうごめん、なんて言わないで
クリニックの前は比較的人通りの少ないのどかな通りで、春になると満開の桜が咲く。
今日は風の音がよく聞こえ、木々が大きく揺れていた。
「この前は香織が変なこと言った。ごめん」
風になびく前髪をおさえながら、唐突な話題にどう反応したらいいか分からなくなる。
「知らなかった。あんなに可愛い婚約者がいたんだね」
「そっちこそ、歯医者の旦那に子供までいるとかびっくりした」
お互い言うだけで言って、不自然な沈黙が流れた。
歯医者の旦那。
彼の口から出た言葉には肯定も否定もできなかった。
ここで違うと否定したって、それ以上の質問に答えられるわけがない。ただ黙っていることが今私にできる精いっぱいの抵抗だった。
「教えてくれれば、お祝いとか……したのに」
後ろめたさから胸がギュッと締め付けられる。
自分を抱き締めるように組んだ手で、羽織ったカーディガンをぎゅっと握った。
「白河さん、院長が呼んでます」
呼びに来た受付の子の声で救われた。
俊介とは目を合わせることもできず、結局なにをしにきたのかも分からない。
別れ際「じゃあ」と小さく声を絞り出し、逃げるようにクリニックへ戻った。