冷徹官僚は高まる激愛を抑えきれない~独占欲で迫られ懐妊いたしました~
翌日から、由卯奈は待っていなかった。
代わりに、メモが置いてある。たいした内容じゃない。
『おかえりなさい。お疲れさまでした! 私は今日はパン屋さんの面接でした』
──面接? 働く気か?
多少混乱する。金銭目的で結婚したんじゃなかったのか? 生活費は十分に渡してあるはずだ。クレジットカードの限度額だってまだ余裕がある──どころか、履歴はすべて近所のスーパーだった。
「わからない人だな……」
つぶやきながら筑前煮を口に運ぶ。知らず「美味い」と口にしていた。この二週間、「まずくない」と言うたびに訂正されてきたから。
「……それにしても、これはウサギなのか?」
メモの片隅に描いてあるイラストは、なんとも珍妙な生き物のものだった。耳が長いから、おそらくウサギなのだろうけれど。
「絵が下手なんだな……」
勝手に唇が綻んで、驚いて息を呑む。自分の頬に触れる。どうやら──笑っているらしい。
妙な焦燥で胸がざわついた。
そのざわつきを誤魔化すように、俺はペンを手に取る。そうしてメモの片隅に『面接ってなんだ』と走り書きして、ついでに珍妙ウサギの横にウサギを描いた。
久しぶりに描く落書きは、なんだか妙に気恥ずかしく思う。
翌日、オムライスに添えられたメモには仕事への労いの言葉の後に『パン作りを習ってみたかったので』とあった。
「……習えばいいじゃないか?」
なにも働く必要性はないと思うのだけれど……ただもう、面接には受かったようだった。
一瞬「働くのなら、ひと言相談があっても」と思ったけれど、『干渉し合わない』とこちらから言っている以上、そんなことは言えない。
ほかに男がいてもいい、とまで約束してあるのだ。働くくらいなんだ。
メモの隅に、今度は……猫……?が描いてあった。その生き物に吹き出しで『直利さんはどんな一日でしたか』と言わせている。
俺はその横に猫を描き『代わり映えは特になし』と吹き出しを書いて言わせた。
なにをしているんだろう、俺は。ガラステーブルにコロンとボールペンを転がした。
気がつけば彼女のペースにハマっているような気がする。
そして、それがやけに心地よかったりもするのだ。
「由卯奈」
ふと名前を呼んでみる。はい、と返事がないかと誰もいない向かいの席を見つめて──。
待っていてくれなくていい、と言ったことを少しだけ、本当に少しだけ、俺は後悔した。
食器を下げた後、ちょっと仕事をしようとして──テーブルに身体を伏せてうたた寝してしまっていたらしい。
それに気がついたのは、小さな手が背中をなでていることに気がついたからだった。
「……大変な、お仕事ですよね」
やわらかな声音だった。
いつまでも聞いていたい、そんな声。
優しい手が背中をなでる。あまりの居心地のよさに、びっくりした。覚醒と睡眠のあわいを行き来するのが、すごく気持ちいい。
ふ、とその手が離れた。小さな喪失感に目を開きそうになった次の瞬間に、ふわりと背中にブランケットがかけられる。
「お疲れさまです──無理は、しないで」
労わりが含まれた言葉に疑問しか浮かばない。どうして彼女は俺のことなんか心配する? なぜこうも俺の世話を焼きたがるのだろう。
由卯奈の嫋やかな手が、俺の手にそっと触れる。それから小さく笑って、ぎゅっと手のひらを押した。
かつてウサギが押していた、ストレス解消のツボだった。