冷徹官僚は高まる激愛を抑えきれない~独占欲で迫られ懐妊いたしました~
由卯奈になにを贈ればいいのか皆目検討もついていない、そんな矢先のことだった。職場に由卯奈の弟、文人が訪ねてきたのは。
「すみません、お仕事中に」
「いやかまわない。ちょうど昼食に行こうとしていたから。一緒にどうかな」
ここへ来た理由を聞く前にそう声をかけると、彼はわずかに訝しんだ表情を浮かべうなずいた。
「食堂……と言ってもカレーや定食なんかしかないが……地下にカフェもあるけれど、どちらがいい」
食べ盛りの大学生らしく「カレー食いたいです」と素直に答えた彼を連れ、エレベーターに乗る。
法務省の二十階にある食堂で、彼はカレー定食、俺は日替わりのチキン南蛮を注文した。奢るとやけに恐縮されて、その辺りは由卯奈に似ているなと思う。
はめ殺しの窓からは、皇居が見下ろせた。堀の水が夏の陽を反射して光る。
窓際の席に向かい合って座った。辺りはまだ空いている。
「……で、どうしてここに?」
カレーを若者らしくあっという間に平らげた文人に単刀直入に聞くと、彼は腿の上に手を置き、俺に向き直る。
「芳賀さん。姉と別れてもらえませんか」
「……は?」
箸が微かに震える。
「文人くん。それは由卯奈から頼まれたのか」
声を荒げそうになるのを抑えつつ聞くと、彼は「いえ」と首を振った。そのことに少し安堵を覚える。
「ならば、なぜ」
「──姉があなたと結婚した理由はご存知ですか」
「……経済的な理由とは聞いているが」
「その通りです。姉は、工場の立て直しと俺の進学費用のために黒部総理……祖父の言う通りにあなたと結婚したんです」
ゆっくりと箸を置いた。
それから水を飲み、窓の外を見る。盛夏の陽を受け、鳩が飛んでいく。
「そう、か」
無欲な彼女の『金銭目的』。
両親が遺した工場を守り、弟を進学させるために、彼女は……好きでもない俺と結婚した。
「そうだったのか」
「お願いします、芳賀さん。オレ、なんでもします。大学辞めて働きます。由卯姉の」
文人が肩を震わせた。
「姉の人生をめちゃくちゃして、オレだけのうのうと生きてられない……!」
「大学は辞めるな。由卯奈が悲しむだろう? 自分を犠牲にしてまで大切にしたかったものなのに」
「それは……」
「それと」
俺は彼に向き直り、はっきりと口にする。
「俺は由卯奈と別れる気はない」
「なんで……!」
文人が眉を上げた。
「あなたは……! 姉に興味なんかないのでしょう? 妻として大事にする気もないじゃないか! 披露宴にも遅刻して、結婚式すら挙げてない」
「……反省している。心から」
「嘘だ」
吐き捨てるように彼は言う。
「ほかに本命の女がいるのだって知ってます」
「本命? なんの話だ」
まったく身に覚えのない話に目を剥く。
「しらばっくれても無駄ですよ。披露宴で姉に突っかかってきてた女──千鳥、とか言ってましたね。あの女が姉に言っていました、あなたに本命は別にいるって」
「まさか、そんなもの……いない」
千鳥……鹿沼千鳥は遠縁かつ、ふたつ年下の幼馴染だ。幼稚園から同じということもあり、それなりに近しい存在ではあったけれど、まさか……由卯奈にそんなことを。
「なにか勘違いしているんだろう」
「そうでしょうか?」
文人を見ながら、俺は血の気がだんだんと引いていくのを覚えていた。
千鳥、なんて余計なことを……!
「由卯奈も、それを信じて……」
「信じるもなにも、結婚式ですら蔑ろにする男ですよ。別に本当に愛する誰かがいると思うのは当然では」
奥歯を噛み締めた。過去の自分をぶん殴ってやりたい。
「俺が愛してるのは、由卯奈だけだ」
「……は?」
文人が胡乱な視線を向けた。
「愛してるって言いましたか」
「ああ。だから……さっきも言ったが、別れられない。彼女を愛してるんだ」
「なぜ。いつから」
「結婚してからだ。だから……」
「オレは」
ぴしゃりと文人が言う。
「結婚相手の女性に、あんな非礼なことを平気でする男に姉を任せられない」
ぐうの音も出ない。
「結婚式の後、オレ、一緒に買い物に付き合ったんです。スーパー行って、いつも通りみたいな顔で買い物して……結婚式の後ですよ。普通は幸せいっぱいで夫と過ごすんじゃないですか。違いますか。悲しそうに食材選んでる姉の顔を見せてやりたかった」
俺はただ、彼の言葉を受け止める。
それしかできなかったから。
由卯奈の悲しい表情を想像する。
胸が張り裂けそうに痛かった。
「止めようって言ったんです、あんな男と結婚することないって。でももう……工場は融資受けてて、引き返せないよって由卯姉は」
どんな気持ちだったのだろう、と由卯奈に想いを巡らせる。
婚約しても、一度も会いに行かなかった。連絡さえしなかった。
そうして、結婚式すら挙げず。
披露宴には遅刻して。
挙げ句の果てに『ほかに本命がいる』なんて聞かされて──
「最低だ、俺は……」
「今さらです。そんなことをした男を、姉が好きになるとでも思いますか」
わかっていた。
ならない。
なるはずがない。
それでも、抑えがたい欲が彼女を求めていて、俺はもう……
「彼女なしでは、生きていけないんだ……」
「そうですか。姉はあなたがいなくても平気だと思います」
掠れた声で「だろうな」とつぶやいた。
それでも手放してやれないんだ。
償い方がわからない。
赦してもらえる日は来るのか。
どうやったら愛してもらえるんだ?
「わからない……」
文人が帰り際に押し付けてきた白紙の離婚届を破り捨てながら、俺は小さくそうつぶやいた。