90日のシンデレラ
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 アクシデントは、金曜日の夜にやってきた。
 金曜日の夜――それは一週間の疲れをどっと感じると同時に、明日はお休みで何をしようとワクワクする時間帯である。
 今週も頑張ったと、自分を労うために真紘はとある入浴剤(バス・パウダー)を用意してあった。これはデパ地下散策したときにわざわざ上層階へ足を運んで購入したものである。

 実家住まいであれば、いろいろ制約がかかる。風呂だってそのひとつ。なんと真紘は入浴剤を使ったことがなかった。
 元々は台所洗剤のオマケでついていた試供品のバス・パウダーを、「あるから使ってみよう」と軽い気持ちで湯に入れた。香りは柚木だったと思う。
 それが思いのほか、気持ちよかった。爽やかな香りが肺いっぱいに広がる。保湿成分のおかげで肌に当たる湯が柔らかい。もちろん体の芯から暖を取ることができ、疲労が抜けていくのがわかる。
 パウダーを加えるだけで、こんなにリラックスできるなんて……まさしくこれは「真紘、アーバンで文化的な生活をする」である。
 この体験からすっかり真紘は入浴剤がお気に入りになった。

 ということで、週末のご褒美バスタイムを楽しむ。今週はヒノキの香りで。
 本社に出向したのはゴールデンウイーク明けで、一ヶ月経った今は梅雨の真っ最中。この時期の東京はとても蒸し暑い。こんな気温と湿度だと、甘い香りでなくさっぱりした香りがいい。
 ご機嫌で、真紘は風呂に入る。のんびりと週末の長湯を楽しむ。
 北峰のことがやや気になるが、金曜の夜に彼が訪れることはない。なぜなら、翌日が土曜日だから。原則、社が休みとなれば、間借りのこの部屋で仮眠を取って、休日に出勤することはないのだ。

 いつもよりも長めのバスタイムを楽しんで、真紘は風呂を出る。出れば、お気に入りの動画が配信されていた。
 ノートPCの画面をみながら、休日前夜だからと缶チューハイなんかも開けてしまう。こんな具合に、悠々自適な週末を過ごしていたときだった。

 「シーナちゃ~ん、やっと終わったよ~」

 何か空耳がきこえたような気がした。
 そんなに飲んだつもりではなかったが、もう酔いが回ってきたのだろうか? 金曜の夜に絶対きくことはない声が、耳に入った。
 さらに声はいう。

 「俺、すごくいい気分なんだ。今から走りにいくんだけど、シーナちゃんもいこ!」

 えっ! と思って振り返れば、リビングダイニングの入り口でスーツ姿の北峰が立っていたのだった。

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