コーヒー女
コーヒー女
その女が隣に越して来たのは、隣家の庭から枝を伸ばした満開の桜が、花弁を散らす頃だった。
「隣に越して来ました、山崎です。つまらない物ですが」
山崎と名乗る女は俺より二、三歳上の三十前後だろうか、化粧気は無かったが整った顔立ちだった。
俺は、熨斗紙に“御挨拶 山崎”と書かれたタオルらしき物を受け取りながら、
「あ、どうも。上田です。……すいません」
と礼を言った。
「失礼します」
山崎は簡潔に挨拶を済ませると、皓歯を覗かせてドアを閉めた。
……それが、山崎美嘉との始まりだった。
付き合う切っ掛けはコーヒーの香りだった。
晴天に開けた窓から入り込むコーヒーの匂いは、紛れもなく美嘉の部屋からの訪問者だった。
何故なら、美嘉が越して来る前には遭遇しなかった匂いだからだ。
俺もコーヒーは飲むが、これ程の香りは振り撒かない。窓から香りが逃げて行く前に三口ほどで飲み干してしまう。それもインスタントコーヒーだ。
ある休日。一週間分の洗濯物をベランダで干していると、美嘉の白い指が物干し竿で動いているのが見えた。
「……おはようございます」
「あ、おはようございます」
俺の小声に反応した美嘉が顔を覗かせて微笑んだ。
「いい匂いですね、コーヒー」
「あ、迷惑じゃないですか? 匂い」
不安気な顔を向けた。
「いえ。コーヒー好きですから」
大して好きでもなかったが、そう、即答して美嘉の気を引いた。
「よかった……」
美嘉は胸を撫で下ろすと、ニコッとした。途端、
「あ、よかったら飲みませんか?」
と手招きした。
「えっ?」
俺は思いがけない誘いに驚きながらも、食指が動いたのは確かだ。
美嘉の部屋は、隣に気兼ねする必要のない角部屋と言う事もあって、俺を誘いやすかったのかもしれない。
部屋は家具が揃っていて、整然としていた。部屋の中央にガラスのテーブルがあり、傍らには色違いのクッションが並んだ横長のラタンチェストがあった。
「グリーンの方に座って」
キッチンでコーヒーサーバーを傾けている美嘉が、座る位置を指示した。
言われた通りに、モスグリーンの葉をあしらった方に腰を下ろして待っていると、
「どうぞ」
トレーに載せた、ソーサーとセットになったアールヌーボー風のカップを俺の前に置いた。
「あれっ、飲まないんですか?」
「私はさっき飲んだばっかり」
傍らの橙色のクッションに腰を下ろしながら、美嘉が微笑んだ。
「では、いただきます」
「どうぞ、召し上がって」
「うむ……旨い」
「ああ、よかった」
俺の顔を覗き込んで笑った。
確かに、本格的に淹れたコーヒーはインスタントと違って、旨いと思った。
味わう素振りでコーヒーを飲んでいると、仕事の事や恋人の有無などを訊いてきた。俺は、質問に馬鹿正直に答えながら、傍らで微笑む美嘉の黒髪に触れたい衝動を抑えていた。
暫くは関わりを持つであろうお隣さんだ。感情のままに行動して憤慨でもされたら大変な事になる。そんな懸念を抱いた俺は、生真面目な男を装った。
だが、そんな不安を他所に、モーションをかけてきたのは美嘉の方だった。折角の申し出だ、据え膳食わぬ手は無い。
水商売をしていると言う美嘉との逢瀬は、週に一度のペースで続いていた。
昼前に美嘉の部屋へ行き、先ず、昼食を作って貰う。次に美嘉が淹れたコーヒーを飲みながらテレビを観る。ダラダラ過ごして、次は夕食をご馳走になる。食後はまたテレビを観ながらゴロゴロし、暫くすると、押入れから洗剤の香りがする布団が出される。
逢いたかった一週間分の想いをぶつけながら、激しく美嘉を抱く。
まるで、お預けを食らった子供のように、貪欲でストレートだった。
それは多分、献身的な年上の美嘉に対する甘えだったのかもしれない。
そんなある日の事。
「……そう言えば、君がコーヒーを飲むのを一度も見た事が無いな」
美嘉の淹れたコーヒーを飲みながら、これまで不思議に思っていた事を口にしてみた。
「あ、私はコーヒーの香りが好きなの」
そう即答した美嘉に、狼狽のようなものが窺えたのは気のせいだろうか……。
コーヒーの香りが好きだから? ……飲みもしないのに、わざわざコーヒーを淹れるだろうか?
この時初めて、美嘉に漠然とした疑念を抱いた。
だが、目に見えない曖昧な疑念より、体で実感できる美嘉との快楽の方を重視した。
ところが、事態は急変した。一年が過ぎた桜の頃、美嘉が病院に運ばれたのだ。
店からの帰り、酒気帯び運転の車に轢かれて……。
幸いにも軽傷で済んだが、精密検査も兼ねて入院する事になった。
当座の着替えが必要だと言うことで、持ってくるように頼まれた俺は、渡された鍵で美嘉の部屋に入った。
必需品が書かれた紙を片手に、箪笥やブティックハンガーからパジャマやカーディガンを選び、紙袋に入れた。
帰り際、例の漠然とした疑念が浮かんだ。
……飲みもしないコーヒーを淹れる理由は、一体何なんだ?
押入れや箪笥の中は既にチェック済みだった。
後は視る所など無い……。
イヤッ! 見ていない所がまだある!
冷蔵庫だっ!
だが、何等変わった所は無かった。卵や牛乳パック、タッパーに入った惣菜が並び、野菜室にはピーマンや茄子、白菜やキャベツが所狭しと入っていた。
次に冷凍庫を開けた。
……ん? これは何だろう……?
製氷皿やトレイを取り払ったそこには、黒いビニール袋が被った、50㎝ほどの大きさの物があった。
両端を掴んで上げてみると、まるで鉄の塊のように重かった。
「よっ!」
両腕に抱えてゆっくりと下ろし、床に置いた。十字がけにリボン結びしたピンクの紐を解き、袋を広げると、中にあったのは、キャスターが付いた小型の衣装ケースだった。袋からゆっくりと引き出すと、透明なケースの蓋の下に、――何かが見えた。
「ゲェーーーッ!」
俺は思わず声を発すると、後退りした。
そこにあったのは、氷漬けの胎児だった。
臍の緒が付いた胎児は、まるで羊水の中で眠っているかのように安らかな表情だった。
コーヒーの匂いと、この胎児の亡骸とどんな関係があると言うのだ?
……そうか! 臭いだ! 臭いを誤魔化す為のコーヒーの匂いだったんだ。万が一にも停電になって冷蔵庫が使えなくなった時の事を想定し、その臭いを誤魔化す為に、日頃からコーヒーの匂いを振り撒いていたのだ。
そうすれば、その時にコーヒーの匂いをさせても、周りは不自然に思わない。
俺は勝手にそんな推理をすると、それを元の形に直して冷凍庫に戻した。
……死産だったのだろうか? ……流産だったのだろうか……いずれにせよ、傍に置いておきたかったのだろう。
子供への深い愛情を想うと、美嘉が憐れだった。
今、俺の傍らには美嘉が居る。
隣の庭から枝を伸ばした満開の桜が散らす、花弁に手を添える美嘉が……。
俺は、そんな美嘉を眺めながら考えていた。
冷凍庫の子を供養してやろうと。そして、美嘉に新しい命を授けてやろうと……。
完