英雄閣下の素知らぬ溺愛
 それを拭おうと、手の甲で目元を擦るけれど、零れる雫が留まることはなく。アルベールの手前、彼に心配をかけたくなくて、必死に止めようとすればするほど、涙は零れ落ちて。

 「嫌だったら、教えてくれ」と、静かな声が聞こえた。



「俺の前でまで、我慢しなくて良い。耐えなくて良いんだ」



 ゆっくりと、背中に回った両の腕。ふわりと香る新緑のような落ち着いた香に包まれると共に、額が触れた、柔らかな布地。あやすように背を撫でられ、耳元で「怖かっただろう」と優しく囁かれれば、もう、駄目だった。

 本当に、本当に。



「……怖かった……!」



 怖くて怖くて、仕方がなかった。窓から飛び降りてでも、逃げ出してしまいたかった。近寄られたくなくて、触れられたくなくて。

 汚されてしまったらと、嫌でも脳裏に浮かんで。

 気付けばアルベールの服をぎゅっと掴んで、その胸に身を預けていた。涙がその布に吸い込まれていくのに気付いても、止めることなど出来なかった。

 本当に、本当に、怖かった。でも。



「でも、わ、私が逃げたら、あの方も、私みたいに、なってしまうって、思って……! 私よりも、ひ、酷い目に遭われるかもって、思って……」



 見捨てることなど、出来なかった。これから起こり得ることが分かっていながら、背を向けて走り去るなんてこと、どうしても。

 あの日のように誰かが助けてくれると、信じるなんてこと、出来なかったけれど。あの日も、偶然助けが来てくれたからこそ、間一髪でこの身が汚されることなく済んだのだ。本当に、偶然だったのだから。

 そんな偶然が何度も続くはずはないと分かっていたけれど、それでも。



 私は、エルヴィユ子爵家の娘で、誇りある騎士の家門で、……英雄である、アルベール様の婚約者だもの……!



 怯える令嬢を置いて自分だけ助かろうなんて、どうしても思えなかった。




「もし、あの時、あ、アルベール様が、来てくれなかったら……」



 きっと、自分も、そしてあの令嬢も。

 脳裏に浮かぶ最悪の想像に、知らず、ふるりと肩が震えたけれど。「カミーユ」と呼びかける声が聞こえて、意識をそちらへと向ける。彼は穏やかな声音で、「思い出さなくて良い」と続けた。
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