英雄閣下の素知らぬ溺愛
 この女と話したいことなど、何もなかった。けれど、この女に聞いてみたいことならば、ある。ただ、一つだけ。



「それよりも、ねえ。教えて欲しいの。あなた、自分がどれほど辛い立場に立とうとしているのか、分かっていらっしゃる?」



 心配するように、優しい口調を心がけてそう問いかける。害のない、儚い美貌の貴族令嬢、そのもののような表情で。

 女は数度瞬きをした後、こくりと頷いた。「もちろん、分かっています」と、女は応える。真っ直ぐに、こちらを見ながら。



「私はあくまでも子爵家の娘に過ぎず、……英雄と呼ばれ、次期公爵となられるあの方の婚約者としては、力不足も良いところ。それを、私自身が誰よりも知っています」



 淡々と告げる女に、おや、と思う。考えていたよりも、話が分かる人間なのかもしれないと、そう思った。男に襲われたからと言って、あの方を相手に結婚を急かすような女だと聞いていたから、もっと気が強い、我が儘な女なのかと思っていたけれど。

 真摯な表情と態度に、少しだけ考えを改める。無駄に危険な橋を渡るのは、自分でも嬉しくはない。

 だからこそ、これは、最後の機会。「そう思うのならば」と、不思議そうな表情を作って問いかけた。



「どうすれば良いのか、分かっているでしょう? ……あの方のためにも、このまま成り行きに任せて結婚しようなんて思わず、婚約を解消して差し上げるべきだわ。……二度目だもの。簡単でしょう」



 「それが、あなたのためにもなるわ」と、優しい口調で付け加えるのを忘れずに。全てがあなたのため。あの方のため。そう聞こえるように。

 慈愛に満ちた笑みを向ければ、誰だって素直に頷いてくれる。今までずっとそうだった。それが許される立場であり、許される人間なのだ。自分は。

 だというのに。



「……申し訳ありませんが、私はそのようには思いません」



 女はそう、真面目な顔で応えた。



「私も最初は、そう考えていました。彼のためを思えば尚更、婚約など、結婚などするべきではない、と。……今でも、そんな風に思う気持ちはあります。後の公爵夫人となるのならば、と」



 「それなら」と、口を開く。そう思うならば、婚約を解消しても良いではないか、と。

 しかし女は首を横に振り、「それは、私の思い違いだったのです」と、再度呟いた。



「あの方の婚約者というのは、後の公爵夫人である前に、()()()()()()()なのです。あの方は私に、完璧な公爵夫人になって欲しくて求婚してくださったわけじゃない。……ただ、()に、傍にいて欲しいと、そう願ってくださったから」
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