英雄閣下の素知らぬ溺愛
 「もちろん、あの方の夫人として恥ずかしくないよう、学んでいくつもりです」と、女は続けた。とても優しい、幸せそうな顔で。

 ぐっと、握り込んだ手のひらに、爪が刺さる。なんて、人を不快にする女なのだろう。まるであの方がそれを望んだかのように言うとは。



 あの方の本心など、考えてもいないのだわ。そう言うしかなかった、あの方の立場なんて。



 「そうなのね」と柔らかい声を意識して返しながら、決めた。もう、迷う必要などないのだと。

 この女と結婚しても、あの方が不幸になるだけだから。



「そこまでの決意ならば、仕方ないわね。あなたを思っての言葉だったのだけれど」



 言いながら、ティーポットの方へと手を伸ばした。女の前に置かれた空のカップと、自らの前にあるカップにお茶を注ぐ。

 「私などのことを考えて頂き、ありがとうございます」と、微笑む女に笑みを返し、「気にしないで」と呟いた。



「あの方とあなたが結婚したら、身内になるのだものね。わたくしとあの方が従兄だから。……せっかくだから、お茶をどうぞ。わたくしのお気に入りの薬草茶なの。わたくしは身体が弱いから、身体に良い薬草に詳しくて」



 笑みを絶やさぬままに、お茶を飲むように薦める。

 そう。これは、一つの試練なのだ。あの方に相応しい者を選ぶための試練。

 あの方の傍らに立つためには、あの方が望むことを、その口に出さずとも気付かなくてはならない。そうして、あの方のために行動できてこそ、あの方に相応しい者となれる。



 この手を汚してでも、……あの方が望んでいるはずだから。



 確証のない確信を胸に、微笑む。「どうぞ、飲んでみて」と言いながら。

 いくらあの方の婚約者とはいえ、彼女は子爵家の令嬢に過ぎない。自分の言葉に逆らえる身分ではないのだ。

 そして、このお茶は本当に、ただの薬草茶である。少々、普通とは調合が違うため、予想とは違う効果をもたらすことにはなるわけだが。



 わたくしは何も知らないわ。ただ、偶然そうなってしまっただけ。……偶然、この女の呼吸が止まってしまうだけだもの。



 そうして、目を覚ますことはないだろう。もう、二度と。

 そこまでしても、相手は子爵家の令嬢。この女の家族が騒いでも、自分へ与えられる罰は大したものではない。あくまでも、偶然起きてしまった事故だから。



 国王陛下は少しお怒りになられるかもしれないけれど、……そもそも、その時はわたくしではなくて、ここにこの女を招待した人間が責任を問われるわ。わたくしはただ、招待した人がいなかったから、代わりに相手をしているだけ。



 その時に起きた、偶然の事故。であれば、誰が悪いわけでもない。偶然が重なっただけだ。
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