英雄閣下の素知らぬ溺愛
 加えて、この女がお茶を飲まなければ、自分が一人で飲んでいたはずと考えると、亡くなったのが子爵家の令嬢で良かったと、誰もが思うだろう。もちろん、あの方も。

 「さあ」と更に女に声をかける。早くそのカップに口を付けて、その最後を見届けさせて欲しい。



 息が止まったのを確認したら、大声で助けを呼んであげるから。



 女は少しだけ躊躇うような素振りを見せたけれど、身分の違う自分の言葉を聞かないわけにもいかず。そろそろと、そのカップに手を伸ばす。ゆっくりとカップが持ち上がり、口の方へと動いて。

 期待に目を輝かせる中、こんこんっ、と部屋の扉がノックされた。



「お嬢様、お客様です。どうしても、今お嬢様にお会いしたい、と」



 聞こえて来たのは、いつも傍に控えている侍女の声。良いところで、と思うと同時に、喜色の混じったその声を不思議に思う。客人が来ており、場を離れられないと知っているにも関わらず、むしろ喜んでいるような声音。

 一体、誰が面会を望んでいるのだろうと、渋々立ち上がろうとした時だった。「あ、お待ちを……!」という侍女の声と共に、部屋の扉が開き、顔を出したのは。

 短く、肩に届かない程の長さになっても美しい銀の髪と、目が眩むほどの美貌。この国で、その名を知らぬ者はいないと確信できる、救国の英雄。



「……アルベール、様……!」



 声を上げ、立ち上がって礼の形を取る。他の誰よりも、彼の前では特別に美しく、優雅に。彼に相応しい人間は、自分なのだと伝わるように。

 侍女の静止を振り切って部屋に入って来たアルベールは、こちらに視線を向けて。しかしすぐに顔を逸らす。ついで、その美しい容貌を明るくした。「ああ、ここにいたのか」と、言いながら。



「捜した、カミーユ。私を置いてどこに行ったのかと思えば……」



 アルベールは女の姿を目に映すと同時にそちらに歩み寄り、女の足元に跪く。「あまり心配させないでくれ」と言いながら女の手を取り、その指先に口付けた。それはそれは、甘く、優しい声で。表情で。



 何これ。何これ。何なのこれ……。



 呆然としながら礼の形を解き、椅子に座ることも出来ぬまま、目にした光景。

 女は当たり前のようにアルベールの口付けを受け、擽ったそうに笑う。「心配なんて。行き先はちゃんとご存知だったでしょう?」と、応える表情は明るく、穏やかで。
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