英雄閣下の素知らぬ溺愛
「何で、そんな女なんかに……!」



 低く、抑えきれなかった声が零れれば、女の方はそれに気付かなかったように笑っているだけだったけれど。

 寒いと、思った。急に空気が、凍ったような、そんな。



「カミーユ。先に出ていてくれるだろうか? 私は少し、……話し合う必要があるようだ」



 唐突に、そう言ってアルベールはその場で立ち上がった。こちらを見ることさえせずに、女の手を取ると、席を立たせてしまう。むしろ女の方が、良いのだろうかというような、不安そうな顔をしていた。

 アルベールはその笑みを深めて、「大丈夫だ」と声をかけた。



「すぐに後を追う。……屋敷の前に、私の馬車を停めている。そこで待っていてくれ」



 「大丈夫だから」と再度アルベールが言うけれど、女の不安そうな表情は変わらないまま。アルベールのエスコートを受ける形で、女は部屋の扉の方へと足を進めた。



「トルイユ侯爵令嬢。お話し中に席を立ってしまい、申し訳ありません。またお会いできることを楽しみにしていますわ」



 扉の前まで進んだ女は、そう言って頭を下げる。固くなってしまった表情を無理矢理に動かして、自分らしい、優しい笑みを作った。「ええ、また」と声をかければ、女はすぐに部屋の扉をくぐり、姿を消した。後に残ったのは、自分と、そして。

 この世で、最も自分に相応しい人だけ。



 あの女がお茶を飲まなかったのは誤算だったけれど。……もう、なりふり構っていられないもの。人を雇って始末するしか……。



 全ては目の前にいる、この方のために。この方と自分が、二人で幸せになるために。



「……久しぶりだな。トルイユ侯爵令嬢」



 あの女を完全に見送ったアルベールは、先程の柔らかな表情など存在しなかったかのように、冷たい顔でそう言った。「楽しんでいる所を、邪魔して悪かった」と。



「カミーユが私の傍にいないと、不安でな。従妹であるお前の元にいるのだから安全だとは思っていたが、気が急いてしまった」



 言って、彼はくしゃりと髪をかき上げる。幼い頃から彼を知っている自分ですら、知らない顔で。

 わけが、分からなかった。この方は、こんな顔をする人ではない。少なくとも、他の誰かに、自分以外の誰かに対して、表情を柔らかくするなんてこと、有り得ない。それなのに。



「特に結婚式を控えた今は、誰に何を言われるか分からない。片時も離したくないのだが、そうすると嫌われてしまいそうでな」



 「加減が難しい」と言って少しだけ困ったような顔をするアルベールの表情は、とても人間味がある、優しい表情をしていた。
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