英雄閣下の素知らぬ溺愛
「……喜んでもらえたようだな」



 ふと、隣から聞こえた声に、はっとしてそちらを振り返る。アルベールは相変わらず優しく、そしてどこか楽しそうに微笑んでいた。

 それに対して、カミーユはただただ何度も首を縦に振る。この素晴らしい舞台には、どんな気取った感想も相応しくない気がして。「本当に、本当に素晴らしい舞台でした」と、情けないことに、子供のようなことを口にすることしか出来なかった。

 けれど、アルベールはそれで満足したようで。「君が楽しかったのならば、良かった」と言って頷いた。



「君の侍女を乗せた私の馬車は、もう着いているかもしれないが……。観客たちが皆、帰宅してから、私たちも帰ろう。せっかくだから、もう少し余韻に浸ると良い。私は飲み物でも買ってくるから」



 そう言って、アルベールは立ち上がる。そしてそのまま踵を返そうとする彼に驚き、カミーユは目を瞠った。このような素晴らしい舞台に連れて来てもらった上に、使い走りのようなことをさせるわけにはいかない。

 思い、「私も一緒に……」と言えば、彼は困ったように笑った。「いや、その必要はない」と、やんわりと断りの言葉を口にしながら。



「裏口の外にいる、私の部下に頼むつもりだから。従業員の彼女に頼んでも良いが、彼女を部屋から出して、私と二人きりになるのも不安だろう。閉幕した今ならば、部下たちも客ではないからと追い返されはしまい。支配人に話をして、すぐに戻る」



 言うが早いか、アルベールは足早に部屋を出て行った。もちろん、隣の部屋に待機していたオペラハウスの従業員の女性に、「私が戻って来るまで、誰も立ち入らせないように」と告げて。

 さすがにこのシークレットルームにまで入り込もうとするような、常識知らずな人間はいないだろうと思いながら、カミーユはアルベールの言葉に甘えて、先程まで眼下に広がっていた舞台の余韻に浸ることにした。

 今でも、瞼を閉じれば見えてくる気さえする。あの素晴らしい音楽と、演者たちによって作られた、美しい世界。その台詞の一つ一つが、小説のそれと同じだったこともまた、カミーユにとって嬉しい部分であった。

 それから、どれくらい時間が経っただろうか。ぼんやりとしていたカミーユの耳に、「ここを開けてくださらない?」という、聞き慣れない女性の声が聞こえて来た。
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