英雄閣下の素知らぬ溺愛
 そうと決まれば、早い方が良い。こういった、勘違いをした輩は、気を抜いた瞬間に、何をするか分からない。
 そう思ったからこそ、楽しみだった彼女の屋敷での晩餐を泣く泣く諦め、行きたくもない屋敷へと向かっているのだった。



「ようこそおいでくださいました、ミュレル伯爵」



 広い庭園を渡り切り、辿り着いた玄関ホールでアルベールを迎えたのは、このギャロワ王国の中でも古い歴史を持つ貴族、バルテ伯爵と、先日オペラハウスで顔を合わせた彼の娘、バルテ伯爵令嬢であった。二人のよく似た朱い髪が、ホールの照明を受けて輝いている。

 全てを覆い隠すように、穏やかな笑みを浮かべるバルテ伯爵とは違い、何を勘違いしているのか、彼の娘はアルベールを見つめ、その目を輝かせながら頬を染めている。

 その反応にさえ、うんざりした。彼女が自分を見て頬を染めるその理由こそが、カミーユを傷付けることになるのだ。
 そんなもの、アルベールにとっては害でしかないのだから。



「久しぶりですね。突然の訪問に驚かれたことでしょう。……私も、訪問するつもりなど更々なかったのですがね」



 いつも通り、その顔に笑みの一つも浮かべることなく、アルベールはそう挨拶を返す。礼儀に則るならば、ここで彼の娘にも声をかけるべきだとは分かっていたけれど。
 アルベールは彼女の方を一瞥した後、すっとその視線をバルテ伯爵へと戻した。



「場所を移して頂いても? このような場でする話ではないので」



 温度の感じられない声で言えば、僅かに動揺したようにバルテ伯爵が数度瞬きをした。「もちろんです。こちらへ」と屋敷の中へ案内していく彼は、振り向く瞬間に少しだけ不審そうな顔をしていた。もしかしたら、彼は知らないのかもしれない。今回アルベールがこの場を訪れることになった経緯を。



 そもそも、貴族らしい貴族であるバルテ伯爵が知っていたならば、このようなみっともないことを許すはずもないだろうからな。



 全ては令嬢の独断だったのだろう。
 それが後に、彼女自身にも、その家にも、多大なる影響を与えるとも理解できずに。
 世間を知らぬ、社交界デビュー前の少女でもあるまいに、と半ば呆れながら、アルベールは先を行くバルテ伯爵の後を追った。

 日当たりの良い、少人数用の客間であろう部屋に案内されたアルベールは、バルテ伯爵に薦められたソファへと腰掛ける。向かい合わせの席に着いたのは、バルテ伯爵とその令嬢。
 それと同時に、屋敷の侍女がさっとそれぞれの前のテーブルの上に、湯気の立つ紅茶を置いた。
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