英雄閣下の素知らぬ溺愛
 玄関ポーチの前に停めてあった豪奢な四頭立ての馬車の前で足を止め、アルベールが控えめに手を差し出してくる。見慣れた穏やかな表情に、大きな手。

 今までも、稀に挨拶の時にこうして手を差し出してくれていたのだけれど、カミーユは一度として触れることが出来なかった。怖かった、というのが本音だった。いくら自分に気持ちを寄せていようと、彼が男性であることに変わりはなかったから。

 でもそれは、あの日の、オペラハウスでの出来事の前までの話。
 男性であっても、彼は違うと、そう思えた今では。



「……カミーユ?」



 じっと自らの手を凝視してくるカミーユに、アルベールは少しだけ不思議そうに呟く。
 そういえば、いつの間にか敬称も無しに名を呼ばれるようになったと、今更そんなことを思った。

 男性である彼が傍にいることも、自然に名前を呼ぶ仕種も、全て。
 いつの間にこんなに、当たり前のことになったのだろう。



 ……この人なら、大丈夫。



 恐れる自分に、何も無理強いすることはない。怯える自分を護ってくれた、優しい人。
 今でも、男の人は怖くて仕方がないけれど、でも。
 この人なら。



「カミーユ、無理はしなくても……」



 身動き一つとらなくなったカミーユの様子に、アルベールが口を開いた。
 同時に、カミーユは深く息を吸い込む。呼吸を止め、そろそろとその手を伸ばして。

 きゅっと、両手で、アルベールのその手に触れた。



「……カミーユっ!?」



 手を差し出した彼自身も、まさか本当にカミーユがその手を取るとは思っていなかったのだろう。驚いた声で名前を呼ばれ、おそるおそるその目を上向ける。

 自分の手に重なった、カミーユの手を見つめるアルベールの顔は、驚きや喜びに満ちた、何とも言えない複雑な表情をしていて。
 視線をこちらに向け、一拍の後にその相好を崩したアルベールに、カミーユもまた詰めていた息を吐き出した。



「ふふ。……アルベール様」



 もうすぐ、彼に求婚されてから、三週間ほどになる。そしてそれから毎日、彼はカミーユの元を訪れてくれた。おそらくは、忙しい時間を縫ってでも、カミーユが彼という存在に慣れるために。何かを強要するわけでもなく、ただ傍にいてくれた。

 それだけの時間を費やしてくれたから、自分を護ってくれると信じられたから。
 「ありがとう、ございます」と、カミーユは呟いた。



「お待たせしました。これでやっと、お伝えできる」



 言えばアルベールは不思議そうな顔で、首を傾げていて。その幼子のような所作を微笑ましく思いながら、カミーユは口を閉じると、ぎゅっとアルベールの手を握った。

 きっと今が、エレーヌの言っていた、その時なのだ。

 息を整えるように呼吸を繰り返し、一度目を閉じて。
 目を開き、真っ直ぐにアルベールを見つめて、言った。



「あなたの傍に、いても良いですか?」



 まだ、決死の覚悟で手を触れるくらいしか出来なくて。それでさえも、心臓がばくばくとうるさくて、どうしようのないのだけれど。
 少しずつ、少しずつ、歩み寄って行くから。

 これからずっと、その傍らに立っていても良いだろうか。

 そんな気持ちを込めて、カミーユはゆっくりと微笑んだ。目の前の綺麗な顔が驚きに歪み、ついで笑みに変わった途端、その藍色の瞳から透明な雫が流れる。その姿がなぜか、とても愛おしく感じて。

 彼の傍ならばきっと大丈夫だと、そう思った。
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