stalking voice〜その声に囚われました~










「あゆなちゃん」


まだ慣れないオフィスの中、次の角を曲がろうかどうしようかと、不自然にならない程度で視線を動かしていると、後ろから声を掛けられた。


「泉く……じゃなくて、よく分かったね」


後ろ姿を見られてたと思うと、何となく恥ずかしい。
結婚前に働いていた時よりもフォーマルな格好は、まだ慣れてなくて。
気にせず楽な格好でって言われたけど、やっぱり他の人の目があるし。


「僕が、君に気づかないで通り過ぎるわけないじゃない。それより、じゃなくってってどういうこと? 」


聞き捨てならないというように、首から下げたセキュリティカードのストラップに挟まった髪を、そっと掻き上げた。


「だ、だって、仕事だし。い、泉くん、なんて呼べないよ。っていうか、何て呼んだらいい……です、か……」


そうだよ、仕事中。
だから、今ので既にダメ、なのに。
どうやら、かなり気に入らなかったらしく、軽くキスされてしまった。
ううん、軽いけど――嫌がらせだってはっきり分かるように、しっかりリップ音を立てて。


「いつもどおり泉くんか、泉って呼び捨てで呼ばないと返事してあげないよ? 」

「……っ、だ、だから、仕事中……!! 」


迫ってくる彼を前に私ができたことと言えば、せめて掌分だけ距離を保てるように、そっと彼の胸に両手を置いただけ。


「そんなこと言っていいの? 僕のところに来ようとして、迷子になっちゃったんだと思ったのに。素直じゃない子は、置いてっちゃおうかな」


それはそうだけど、でも。
でも。
でも……!!


「…………一緒に、連れてってください…………」

「素直。おいで」


(……絶対、私の方が合ってる)


人が通らないかと挙動不審な私に笑って、その手を簡単に優しく掌に入れて。
私がきょろきょろして怪しいのは、道に迷ったからだけじゃない。

向かうのが彼の執務室というだけで、その先が容易に想像できて――なのに、けして抗えないと分かってるからだ。




・・・




「はい、到着。どう、少しは慣れた? 嫌な思いしたりしてない? 」

「迷惑掛けてばかりだけど……っていうか」


当たり前なのかな。
彼のオフィスには、他に誰もいなかった。
窓もないし、ガラス張りでもないから、随分閉鎖された空間――そんなことをわざわざ思うのも、この先を予想してるから。


「……皆さんに、何か言った……? 」


初出勤の日は、正直異様なほど歓迎された。
それからも、あまりにちやほやというか、腫れ物というか――とにかく、誰もが私への接し方が異常すぎる。


「迷惑なんて、そんなことないよ。君が考えてくれた宿泊プラン、反響大きかったじゃない。しかも、金額下げてないどころか、普通に考えて結構高めで。すごいよ」


質問は思いきり無視されたけど、彼が持ち出した話題も何だかおかしい話だった。
まるきり素人の私の案が通り、しかもそれがSNSでバズるとか。


「……泉くん」


貢献できたなら嬉しいけど、ちょっと信じられない。
この優しい旦那さまのそんなにっこりは、疑うべきだともう心身ともに覚えてる。


「大したことしてないって。いいんだよ、君はそんなこと知らなくて」


広いオフィス、広いデスク、座り心地よさそうな椅子に座った彼の誘うまま、両足の間に座って後ろから抱かれて。


「こ、こ……、会社」

「だね。そして、僕の部屋。許可しない限り、誰も入ってこないよ」


耳を()まれ、そっと軟骨まで噛まれたと思ったら、褒めてるのか謝られてるのか、しっとりと舐められる。


「あゆなちゃん。ほら、もっとこっち寄って。体重預けて」

「……し、ごと……」


浅く座って、背中を反らせて。
そんな抵抗に、何の意味があるだろう。
――こんなふうに追い込まれて、耳は捕まるどころか彼の唇のうちにあるのに。


「今度は、君の名前呼んじゃだめ? 同じ名字なのに、じゃあ、何て呼ぶの。僕の奥さん」


フォーマルを装うくせして、シャツやブラウスじゃなく、そこまで覆った服を着込んでる首筋を上から撫で、笑う。


「みんな、知ってるよ。僕がどれだけ君を大事に思ってるかも、君がどうして、いつもそんな格好してるのかも。それだけ。……何も、心配することないよ」


常にキスマークがついてるんだと、ここで働く全員に知られてるんじゃないかと思うと、ひとつひとつボタンを外され終わった時には、きっとそこは赤くなりすぎていてる。


「大丈夫、ね。僕がいるから。大丈夫……」


(……なに、が……)


やや不自然な言葉を流そうとしたのは、一向に減ってはくれない印をまた増やされたからか。


(……びさいど、ゆー……)


どうして今、アンインストールしたマッチングアプリの名前なんて脳裏に過ぎったんだろう。
なぜだか分からないけど、始まってしまえば彼の気が済むまで終わらない愛情を受けながら、ぐるぐるとその名前と一緒に渦巻いては呑まれていった。





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