臆病な片思い
「君はもう帰りなさい」

夜11時を回り、彼が言う。

「俺につきあって君まで残業する事はないんだ」

私が持ってきたコ-ヒ-を口にしながら彼が言う。
その表情はさすがに疲れきっているよう。

「社長こそ、もうお帰りになって下さい。眠らないと体を壊します」
「心配してくれるのか?」

くっきりとした二重の目がこっちを向く。黒い瞳と合って、ドキッとした。

「私は社長の秘書ですから、社長の事を第一に考えるのが仕事です」
「仕事か」

フッと笑った彼が、何だか寂しそう。

「俺と初めて会った時の事、覚えているか?」
彼が仕事モードの厳しい表情から、頬を緩めた優しい表情を浮かべる。

「社長と初めて会った時?」

記憶を辿ってみる。

先代の社長の時から秘書の一人だった私。
新しく就任した彼に第一秘書を命じられ、嬉しかった。

『氷室啓一だ。君は有能な秘書だと聞いている。宜しく頼む』

彼に差し出された手を握った瞬間、胸が高鳴った。
彼の期待を裏切らない為にも頑張ろうと誓った瞬間だった。
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