ひねくれ御曹司は気高き蝶を慈しみたい
帰宅した灯至は部屋の中に漂う異質な空気をすぐに感じ取った。夜の八時を過ぎてもリビングはおろか、部屋の中のどこの灯りもついていない。いつもなら玄関に迎えに来るはずの妻の姿も見当たらない。
「粧子?」
灯至は粧子の名前を呼びながら、あちこちを探し回った。このところ身体の調子が悪そうなのは知っていた。どこかで倒れていたらそれこそ大事だった。
「粧子!!」
何度名前を呼んで一向に返事がないことに焦れて、とうとう大声で叫び出す。
物音ひとつしないリビングの明かりをつけると、灯至はようやくテーブルの上に置かれた離婚届と結婚指輪の存在に気がつき絶句した。これではまるで粧子が自分から出て行ったみたいではないか。
どうして……?
理由もわからぬまま灯至は粧子のスマホに電話を掛けた。永遠とも思える呼び出し音が続く。
何度かかけ直した末にやっと呼び出し音が終わり、電話が繋がった。
「粧子、一体どういうつもりだ?」
灯至は怒りを必死で堪え、電話の先にいるはずの粧子に尋ねた。
『どういうつもりだと尋ねたいのはこちらの方だ』
粧子のスマホにかけたはずなのに、応答したのは男性だった。一瞬番号を間違えたのかと錯覚する。
男性の声は灯至がよく知る人物に酷似していた。
「……明音?」
『悪いな、灯至。粧子さんの行方はお前には教えられない』
「なぜ、お前が粧子のスマホに出るんだ!!ふざけるなよ……!!」
『怒鳴るな。今から説明しに行く』
プツリと通話が切れる。灯至は静かにテーブルの上の離婚届に目をやった。粧子の筆跡に間違いない。礼状を書くためにペン字を習ったという粧子の字は手本のように美しい。