ひねくれ御曹司は気高き蝶を慈しみたい
「茅乃ちゃんが生まれてから、もう十ヶ月か……。生まれたのがついこの間のことみたいですね」
「明音さんには本当にお世話になりました」
「いえ。俺に出来るのは金で解決出来るようなことばかりで……。ひとりで茅乃ちゃんを育てる粧子さんの力になれることはほとんどありませんでしたよ」
ひとりで育てると決めたが、産んでみると実際ひとりで育てられるものではないと実感した。明音を始めとする多くの人に支えられて今があることに感謝の念は尽きない。
「あ、お茶のおかわりいります?」
「粧子さん、そろそろ灯至の元に戻ることを考えてみませんか?」
灯至の名前を聞くと、粧子の笑みが凍りついた。明音はこれまで何度も粧子の元を訪れていたが、灯至のことを口にしたのはこれが初めてだった。
立ち上がりかけていた粧子は再びダイニングチェアに腰を下ろした。
「今更戻れるはずがないわ……。そもそも灯至さんは私と結婚するべきじゃなかったの」
灯至が粧子に優しかったのは、粧子が大叔母の遺産を相続する権利があると思っていたからだ。戻ったところで、手酷い扱いを受けるだけだ。
消極的な意見ばかりを口にする粧子に、明音は負けじと言い返した。
「本当にそうでしょうか?灯至は俺よりも頭が良くて何でも器用にこなす奴ですが、遺産を手に入れるために結婚するほどひねくれてはいない。その証拠に離婚届はまだ役所に提出されていない」
否定しようのない事実を突きつけられ、粧子は目を逸らした。
灯至の元を離れる時、離婚届と結婚指輪を置いて行ったが、一年以上経った今でも離婚は成立していない。粧子は戸籍の上では今でも灯至の妻のままだった。