君が月に帰るまで
「ゆめ、疲れたろ。ゆっくり休んで……」

振り返ると、ゆめはハートのクッションでもう寝息をたてていた。昼間、何があったんだろう。なんか毎日怖い思いしてるんじゃないかな。
昨日は小学生に追いかけられて、今日は部屋へ戻れなくなって。

地味に怖いことだったに違いない。熱中症にならなかったのは不幸中の幸い。
はじめはゆめの背中を撫でると、そっと部屋を出て行った。

2階へ上がり、自室のベッドに倒れ込む。はじめの心の中を今日あったことがぐるぐると頭を駆けめぐり、橘が言ったことを思い返していた。

古文を専門にした大学教授。好きなことを勉強し続けられるなんて。そんな嬉しいことがあるだろうか。

医学部進学は? 親は? 何もなければそうしたい。でも、期待されている以上、それを口にする勇気も湧いてこない。
枕に顔を突っ伏していると、スマホが震えた。画面を見ると兄の(れい)だった。

「はい、もしもし」

「あ、はじめ? おれ俺。お兄たまですよ♡」

「ちょっと、いま人生の大事なところだから切るね」

「ちょっ……待て待て。人生の大事なところってなんだよ。好きな子に告白するのか?」

「あのね、零にとったらそうかもしれないけど、僕は進路について真剣に考えてるの!!」

声を荒げてそう言うと、零も黙っている、ややあって、零が口を開く。

「なぁ、お前がもし、置かれている環境になんの制約もなかったとしたら、どんな未来を選ぶ?」

「なんの制約も?」

「家族のこと、お金のこと、やるべきだと思って疑わなかったすべてのことが、何もなくなって、お前の自由に選べるとしたら? お前は何がしたい?」

目の前がぱあっと明るくなる。自分の自由に未来が選べる? 無限の可能性を自分で選べるとしたら? 周りを塞いでいた壁がすべて取り除かれて、広い草原の真ん中に立っているような気がした。

「僕、古文の勉強がしたい。大学で専門的に研究してみたい」

考えるより早く、言葉が出てきた。そんな気持ちがあったんだ……。「いいじゃん! それ。お前昔から百人一首とか、万葉集とか好きだったもんな。……本気でそうなりたいと思う?」

「そうだね、何も制約なければね」

「制約なんか、ないよ。お前の人生だろ。やりたくないものなんか、やるなよ」

「……」

「あさって日本に帰るから、ちょっと話そうぜ。といっても彼女の家に泊まるから、家には泊まらないけど。話ししよう」

なになになに? いろいろぶっこんできた零の話についていけない。

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