目が合ってしまった
目が合ってしまった
仕事から帰ると、家の中が暗かった。この時間はいつも夕飯の匂いがして、献立を当てるのが決まりだった。急用でもできて、出掛けたのだろうか。そんなことを思いながら、台所の電気を点けた。
「ヒャッ」
テーブルに頬杖をついた母がこっちを見ていた。
「どうしたの? 電気も点けないで」
「おばちゃん、だれ?」
「はあ? 何言ってるの。娘の菜穂子よ」
「しらない」
「……母さん、どうしたの?」
この時、テレビの情報番組で言っていた、いわゆる認知症だと思った。
到頭、母にも訪れたのか……。
「……食事は?」
「まだ。おなかすいた」
母のその言い方はまるで子供だった。母はまだ50代だ。こんなに早く症状が現れるものだろうか……。
食事を作るのが面倒だった私は、冷凍庫にあったチャーハンとハンバーグを温めた。
明日、病院に連れていこう。そう思いながら、スプーンを口に運ぶ母を見ていた。
「ミナコ、おうちにかえる」
食事を終えた母が腰を上げた。
「何、言ってるの母さん。ミナコって、誰? ここが家じゃない」
「ミナコ、ママにあいたい」
今にも泣き出しそうだった。
「……母さん」
子供に戻ってしまった母に合わせるしかない。
「明日、ママに会えるからね。今夜は泊まってって」
「……うん」
母があどけない笑顔で頷いた。
……認知症は治らないと聞いている。このまま、意味不明な言動の母と生活をしていくしかないのだろうか。私は悪い方にばかり考えて、なかなか寝付けなかった。
翌日、朝食を済ますと、病院に向かった。横断歩道まで遠かったので、歩道橋を使った。病院もスーパーも駅も、すべてが車道の向こうにある。
歩道橋の階段を下りた時だった。母の足が止まった。
「……母さん、行くわよ」
振り向くと、母は車道の一点を見つめていた。母の視線を追ってそこを見ると、白いチョークで×があった。
事故でもあったのかしら、と思い、母を見ると、微動だにせず、×印をじーっと見ていた。
「母さん……」
母の手を握ると引っ張った。
「ママーっ!」
母が突然叫んだ。
「母さん!」
行き交う人達が母を見ていた。私はどうしたらいいか分からず、母の手を引っ張って歩いた。すると、
「あ、ミナコのうち」
と、歩道に面した緩い坂道の先を指差した。
「えっ?」
振り向くと、母は嬉しそうな顔で坂を上り始めた。
「母さん、待って。どこに行くの?」
私の言うことも聞かず、母は坂を上っていた。その足取りは子供のように軽やかだった。
やっと追いつくと、〈三浦〉と表札がある一戸建てに入っていった。
「ママーっ!」
母の声が聞こえた。
開いている引き戸から覗くと、そこには、母を抱きしめる30代の女が泣いていた。
「……え?」
どういうことだ? この人は誰?
「ママ、ただいま」
「おかえり、ミナコ」
女は母の顔をしみじみと見つめながら微笑んでいた。
「……あのぅ」
私の声に女がこっちを見た。
「すいません。母、認知症なんです」
「……そうなんですか。でも、娘が帰ってきてくれたみたいで嬉しくて」
「……娘?」
「ええ。昨日、交通事故で、……亡くなりました」
「……亡くなった」
「玄関前でまりで遊んでいて。坂を転がったまりを拾いに走って、車に轢かれて。……私のせいです」
女は辛そうな表情で俯いた。
「さっき、ママって呼ぶ声が娘にそっくりだったので、娘が生き返ったのだと思い、嬉しくて思わず抱きしめてしまいました」
そこには、子を想う母親の柔らかな表情があった。そして母も、母親に会えた喜びを表現する子供のように満面の笑顔だった。
以前どこかでこんな話を聞いたことがある。
“死ぬ直前の人間と目が合うと、……乗り移る”と。