粉雪舞う白い世界で
『粉雪』
不動産屋の中年男性・・・大鶴さんに連れられて行ったそのスナックは繁華街の裏通りにある「ゆり」という名の店だった。
古ぼけた雑居ビルの1階にある、小さなスナックだ。
黒いガラスの自動ドアから店に入ると、カウンターの向こうに、紫色の派手な蝶の柄が入ったワンピースを着た艶っぽい女性が「いらっしゃい~」と私達に声を掛けた。
「よっ。ママ。」
「あら、大鶴さん。こんな早い時間からどういう風の吹き回し?」
大鶴さんにママと呼ばれた女性は40代くらいだろうか?
肌がつやつやして、ローズピンクの口紅が良く似合う綺麗な女性だった。
女性は大鶴さんの後ろに立つ私に目を向け、不思議そうな顔をした。
「その子、だあれ?もしかして大鶴さんの新しいコレ?」
女性はそう言って小指を立ててみせた。
「ちょっと新しいってなによ。僕はずっと恋人なんていないからね。僕はママ一筋なんだから。」
「ハイハイ。・・・で?」
「ああ、この子。ウチの店で部屋借りたいって来たんだけど保証人がいなくてさ。東京から来たばかりで住むところも仕事もないんだって。ママ、若い女の子を探してるってこの前言ってたでしょ?この子、ちょっと垢抜けないけど、磨けば光ると思うんだ。どう?雇ってみる気ない?」
「ああ。そういうこと。」
女性はカウンターから出ると、私の前に立ってジロジロと私を見定めた。
「ふーん。アンタ、名前、なんていうの?」
「田山伊織です。」
「まあ、東京から来たにしちゃ、ちょっとダサいけど、ポテンシャルは高そうね。こういう仕事は初めて?」
「はい。初めてです。・・・あの、一生懸命働きますから、よろしくお願いします!」
私は頼みの綱が切れないように、頭が膝につくくらい深く頭を下げた。
「いいわよ。採用。」
女性はあっけなくそう言った。
「ほんとですか?!ありがとうございます!」
「私は町山ゆりっていうの。ゆりさんって呼んで。私、客以外の人間にママって呼ばれたくないのよ。母親でもあるまいし。」
「あの・・・私が前に勤めていた店も「リリー」っていうんです。オーナーの奥さんの名前が百合子さんっていうので。なんか運命を感じます。」
「そう?ゆりなんて名前、そう珍しくもないけどね。」
ゆりさんはそう鼻で笑った。
仕事と住むところが決まってホッとした私は、すぐに古田さんに電話をした。
古田さんはとりあえず安心した、新しい場所でも頑張って、と励ましてくれた。
もし東京へ戻ることがあったら、また連絡することを約束して電話を終えた。
スナック「ゆり」での生活は、朝晩が逆転してしまうものの、そんなに悪くはなかった。
スナックの営業時間は夜7時から翌日の2時まで。
店に出るときの服装はいつものジーパンにトレーナーというわけにはいかず、前に勤めていたナオミちゃんという子が置いていった大人っぽいワンピースを着させてもらうことになった。
サイズがぴったりなので助かった。
少し胸が大きくはだけているのが恥ずかしいけれど、こういう仕事をするうえでは必要不可欠なことだった。
ゆりさんはズケズケとものを言うけれど、基本的には優しい人だった。
店での心構えや仕事内容をしっかりとレクチャーしてくれ、私がミスをしても何事もなかったかのようにフォローしてくれた。
午前中はゆりさんや自分の洗濯や食事を作り、午後は店の仕込みや雑用を手伝う。
ゆりさん特製の肉じゃがはこのスナックの売りのひとつだった。
私はこの肉じゃがの作り方を再現できるように精進し、ゆりさんにお墨付きをもらう事が出来た。
私の店での源氏名は「りお」になった。
そしてゆりさんは私に店で常連となったお客様に渡す名刺を作ってくれた。
ピンク色の四角い紙にスナック名と中央に「りお」と名前が書かれている可愛い名刺だった。
「伊織じゃ駄目なんですか?」
私が口を尖らせるとゆりさんは「駄目駄目!伊織なんて固い名前。アンタは今日から『りお』でいくからね。」と窘められた。
「いおり」を逆さまにしたら「りおい」
その頭2文字をとって「りお」とゆりさんは考えたらしい。
しばらくすると私も「りお」と呼ばれることに慣れて、違和感は無くなった。
スナック「ゆり」はさびれたビルの小さな店の割には繁盛していた。
夜7時に店を開くと、ぽつりぽつりとお客さんが訪れる。
その大体がゆりさんのファンである常連さんだ。
銀行マンの有田さん、餃子店を経営している吉永さん、エンジニアの河村さん、他にもママのファンが沢山いる。
もちろん不動産屋の大鶴さんもその一人だ。
大鶴さんはバツイチで淋しい一人暮らしだと、店に来るといつも愚痴をこぼす。
大鶴さんはゆりさんを本気で口説いているのだけれど、ゆりさんはのらりくらりとかわし、まったく相手にしていない。
私は開店時間30分前に店に入り、店内の床、トイレなどを隈なく掃除した。
開店時間直後に服を着替え、カウンターに入り、ゆりさんの手伝いをする。
3ヶ月も経った頃には、美味しい水割りの作り方もマスターした。
お客様への対応は「リリー」での接客経験が役に立った。
お客様の話をよく聞いて、絶妙なタイミングで相槌を打つ。
お客様が喋りたくない雰囲気のときは、お酒とおつまみを出して、ただ静かにしている。
半年も経つと、私目当てに店に来てくれるお客様も増えてきた。
今日も私のファンだと言ってくれる証券マンの桐谷さんが来店し、カウンターの前に座ると私の手を握った。
しかし桐谷さんの手を、ゆりさんがぺちっと叩いた。
「痛いな~ママ。何すんだよ。」
「それはこっちの台詞。ここはお触りバーじゃないの。りおに触るのは禁止!」
「え~。ちょっとくらいいいじゃん。ね~りおちゃん。」
「もう。私は高いですよぉ!」
私はそう言って満面の笑みをしてみせた。
愛想笑いも、もうお手のものだった。
店内にはカラオケがあって、たまにデュエットを求める声があがる。
するとゆりさんが私に目配せする。
付き合ってあげなさい、という合図だ。
私はカウンターから出ると、ノリノリでお客様とのデュエットにつき合った。
その日も桐谷さんからデュエットをせがまれて、カラオケ台に二人で立った。
「ママ~。レミオロメンの『粉雪』入れて!」
私はその言葉を聞いて、身体が氷水を浴びせられたように冷えた。
心に蓋をして抑えていた感情が、溢れ出てしまう寸前だった。
凌と私が好きだったこの曲。
ふたりでよく口ずさんだこの曲。
忘れたくても忘れられないこの曲。
凌の歌声を私の耳がはっきりと覚えている。
私と凌がキッチンで一緒にお皿を洗いながら歌っている。
私はちょっとはにかみながら、サビを歌う。
私の声に合わせて、凌も身体を揺らし、そして微笑みあう。
それは幸せに満ちた時間の面影。
もう二度と戻らない夢の欠片。
イントロのメロディを聞いた途端、心の中のなにかが弾け、私の目からとめどなく涙が溢れた。
「ど、どうしたの?りおちゃん。」
何も歌わずただ立ち尽くして涙を流す私に、桐谷さんが心配そうな表情で声を掛けた。
「りお~?ちょっと奥で休んでな。ごめんね桐谷さん。この子ちょっと昨日から体調が悪いのよ。」
不穏な空気をいち早く察知したゆりさんが、私をカウンターの奥へ押しやった。
私は自分の部屋に戻ると、机に突っ伏して声を殺しながら泣き続けた。
古ぼけた雑居ビルの1階にある、小さなスナックだ。
黒いガラスの自動ドアから店に入ると、カウンターの向こうに、紫色の派手な蝶の柄が入ったワンピースを着た艶っぽい女性が「いらっしゃい~」と私達に声を掛けた。
「よっ。ママ。」
「あら、大鶴さん。こんな早い時間からどういう風の吹き回し?」
大鶴さんにママと呼ばれた女性は40代くらいだろうか?
肌がつやつやして、ローズピンクの口紅が良く似合う綺麗な女性だった。
女性は大鶴さんの後ろに立つ私に目を向け、不思議そうな顔をした。
「その子、だあれ?もしかして大鶴さんの新しいコレ?」
女性はそう言って小指を立ててみせた。
「ちょっと新しいってなによ。僕はずっと恋人なんていないからね。僕はママ一筋なんだから。」
「ハイハイ。・・・で?」
「ああ、この子。ウチの店で部屋借りたいって来たんだけど保証人がいなくてさ。東京から来たばかりで住むところも仕事もないんだって。ママ、若い女の子を探してるってこの前言ってたでしょ?この子、ちょっと垢抜けないけど、磨けば光ると思うんだ。どう?雇ってみる気ない?」
「ああ。そういうこと。」
女性はカウンターから出ると、私の前に立ってジロジロと私を見定めた。
「ふーん。アンタ、名前、なんていうの?」
「田山伊織です。」
「まあ、東京から来たにしちゃ、ちょっとダサいけど、ポテンシャルは高そうね。こういう仕事は初めて?」
「はい。初めてです。・・・あの、一生懸命働きますから、よろしくお願いします!」
私は頼みの綱が切れないように、頭が膝につくくらい深く頭を下げた。
「いいわよ。採用。」
女性はあっけなくそう言った。
「ほんとですか?!ありがとうございます!」
「私は町山ゆりっていうの。ゆりさんって呼んで。私、客以外の人間にママって呼ばれたくないのよ。母親でもあるまいし。」
「あの・・・私が前に勤めていた店も「リリー」っていうんです。オーナーの奥さんの名前が百合子さんっていうので。なんか運命を感じます。」
「そう?ゆりなんて名前、そう珍しくもないけどね。」
ゆりさんはそう鼻で笑った。
仕事と住むところが決まってホッとした私は、すぐに古田さんに電話をした。
古田さんはとりあえず安心した、新しい場所でも頑張って、と励ましてくれた。
もし東京へ戻ることがあったら、また連絡することを約束して電話を終えた。
スナック「ゆり」での生活は、朝晩が逆転してしまうものの、そんなに悪くはなかった。
スナックの営業時間は夜7時から翌日の2時まで。
店に出るときの服装はいつものジーパンにトレーナーというわけにはいかず、前に勤めていたナオミちゃんという子が置いていった大人っぽいワンピースを着させてもらうことになった。
サイズがぴったりなので助かった。
少し胸が大きくはだけているのが恥ずかしいけれど、こういう仕事をするうえでは必要不可欠なことだった。
ゆりさんはズケズケとものを言うけれど、基本的には優しい人だった。
店での心構えや仕事内容をしっかりとレクチャーしてくれ、私がミスをしても何事もなかったかのようにフォローしてくれた。
午前中はゆりさんや自分の洗濯や食事を作り、午後は店の仕込みや雑用を手伝う。
ゆりさん特製の肉じゃがはこのスナックの売りのひとつだった。
私はこの肉じゃがの作り方を再現できるように精進し、ゆりさんにお墨付きをもらう事が出来た。
私の店での源氏名は「りお」になった。
そしてゆりさんは私に店で常連となったお客様に渡す名刺を作ってくれた。
ピンク色の四角い紙にスナック名と中央に「りお」と名前が書かれている可愛い名刺だった。
「伊織じゃ駄目なんですか?」
私が口を尖らせるとゆりさんは「駄目駄目!伊織なんて固い名前。アンタは今日から『りお』でいくからね。」と窘められた。
「いおり」を逆さまにしたら「りおい」
その頭2文字をとって「りお」とゆりさんは考えたらしい。
しばらくすると私も「りお」と呼ばれることに慣れて、違和感は無くなった。
スナック「ゆり」はさびれたビルの小さな店の割には繁盛していた。
夜7時に店を開くと、ぽつりぽつりとお客さんが訪れる。
その大体がゆりさんのファンである常連さんだ。
銀行マンの有田さん、餃子店を経営している吉永さん、エンジニアの河村さん、他にもママのファンが沢山いる。
もちろん不動産屋の大鶴さんもその一人だ。
大鶴さんはバツイチで淋しい一人暮らしだと、店に来るといつも愚痴をこぼす。
大鶴さんはゆりさんを本気で口説いているのだけれど、ゆりさんはのらりくらりとかわし、まったく相手にしていない。
私は開店時間30分前に店に入り、店内の床、トイレなどを隈なく掃除した。
開店時間直後に服を着替え、カウンターに入り、ゆりさんの手伝いをする。
3ヶ月も経った頃には、美味しい水割りの作り方もマスターした。
お客様への対応は「リリー」での接客経験が役に立った。
お客様の話をよく聞いて、絶妙なタイミングで相槌を打つ。
お客様が喋りたくない雰囲気のときは、お酒とおつまみを出して、ただ静かにしている。
半年も経つと、私目当てに店に来てくれるお客様も増えてきた。
今日も私のファンだと言ってくれる証券マンの桐谷さんが来店し、カウンターの前に座ると私の手を握った。
しかし桐谷さんの手を、ゆりさんがぺちっと叩いた。
「痛いな~ママ。何すんだよ。」
「それはこっちの台詞。ここはお触りバーじゃないの。りおに触るのは禁止!」
「え~。ちょっとくらいいいじゃん。ね~りおちゃん。」
「もう。私は高いですよぉ!」
私はそう言って満面の笑みをしてみせた。
愛想笑いも、もうお手のものだった。
店内にはカラオケがあって、たまにデュエットを求める声があがる。
するとゆりさんが私に目配せする。
付き合ってあげなさい、という合図だ。
私はカウンターから出ると、ノリノリでお客様とのデュエットにつき合った。
その日も桐谷さんからデュエットをせがまれて、カラオケ台に二人で立った。
「ママ~。レミオロメンの『粉雪』入れて!」
私はその言葉を聞いて、身体が氷水を浴びせられたように冷えた。
心に蓋をして抑えていた感情が、溢れ出てしまう寸前だった。
凌と私が好きだったこの曲。
ふたりでよく口ずさんだこの曲。
忘れたくても忘れられないこの曲。
凌の歌声を私の耳がはっきりと覚えている。
私と凌がキッチンで一緒にお皿を洗いながら歌っている。
私はちょっとはにかみながら、サビを歌う。
私の声に合わせて、凌も身体を揺らし、そして微笑みあう。
それは幸せに満ちた時間の面影。
もう二度と戻らない夢の欠片。
イントロのメロディを聞いた途端、心の中のなにかが弾け、私の目からとめどなく涙が溢れた。
「ど、どうしたの?りおちゃん。」
何も歌わずただ立ち尽くして涙を流す私に、桐谷さんが心配そうな表情で声を掛けた。
「りお~?ちょっと奥で休んでな。ごめんね桐谷さん。この子ちょっと昨日から体調が悪いのよ。」
不穏な空気をいち早く察知したゆりさんが、私をカウンターの奥へ押しやった。
私は自分の部屋に戻ると、机に突っ伏して声を殺しながら泣き続けた。