この胸が痛むのは
もし気付かれてお尋ねになったら、と答えは用意していたので、ちゃんと言えました。
すると、しばらく黙っておられて。


「じゃあ、今度一緒にトルラキアに行ったら、またあのおばさんから買おう」


直ぐに返事が出来なくて。
喉の辺りに、熱い塊が詰まってきて。
あの、『出会い市』に行ったのは、すごい昔の事みたい。


「アグネス、聞こえた?」

「……ありがとうございます。
 そうですね、そんな機会があれば」

無理矢理に笑顔を作りました。 
殿下が温室で、姉に告白していたのを聞いたの、と言えば。
もう会えなくなるのかな。
もう会わなくて済むのかな。


「少しだけ時間貰えるかな? 君に話がある、って言ってたよね?
 あれなんだけれど……」

……そうだった。
あの日の朝早くからご使者が来られて、話があるとお手紙を貰っていました。
聞かなくてはいけないのに、そんな勇気はなくて。


「ごめんなさい、殿下。
 今は、その事は忘れたいのです」

「殿下、って。
 フォードって、呼んでくれないの?」

「……」


それは、特別な呼び名でした。
初めて会った王城の四阿で。
殿下は見習いのフォードと名乗ったのです。
それから、トルラキアの教会の前。
本物のフォードだよ、と迎えに来てくれた。
この日から殿下はご自分の事を、私じゃなくて俺って言った。

私にとって、その名前は、本当に特別な、特別な……
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